1 名前
師匠が一番初めにくれたのが名前だった。
両親にもらったものとは別の、新しい名前。
名前というものを魔術では重要視するけれど、生まれついてすぐつけれたそれは“真名”と言い、魔術師にとっては命と同じ重みを持つらしい。
あらゆる物質、現象の名前を知ることが魔術師の第一歩。
そして人間や精霊の“真名”は魂そのものだという。
名は体を表す――真名は魂を表す。
魔術師と縁遠い庶民は真名を開けっぴろげにして生活しているが、師匠に言わせれば、丸裸で無防備な、どうぞ好きにヤッてください、という風にしか見えないらしい。
その言い方にフィーリアさんは派手に眉根をしかめていたけど、僕は師匠の口からときどき出る品のない言いようがけっこう好きだった。
ある程度の階級――王族や貴族や准貴族など――の人間や魔術に造詣の深い者は、たいてい真名とは別の字名を名乗る。そうでもしないと次から次へと魔術で呪われて、暗殺がし放題なんだとか。
それでも一部の神官や高位の魔術師、呪殺専門の呪術師は“名明かし”と呼ばれる秘術を使って、強制的に真名を調べる術を持っていたりする。ものすごく面倒で成功させるのに下調べやら準備やらが大変らしいが、世界から呪いが消えないのはそういうわけだとか。
『お前も魂を縛られて早死にしたくないだろう?』
物騒なセリフと一緒に僕がもらった名前は、リオン。
ただの「リオン」だ。姓はそのうちやるよと師匠は言ったけれど、いつだろう?
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「おい」
……自分で付けたくせに滅多に僕の名前を呼ばない師匠に、研究用の塔に用意された専用の机で書類を分類していた僕は、小さく頷いて席を立った。
大量の書物に埋まって何か書き物をしていた師匠は、顔も上げずに一枚の書き付けを寄越す。
「今日からのお前の課題だ」
流し読みすると、どうやら薬の調合の手順らしい。
「簡単な咳止めの薬だ。出来たら持って来い」
「はい」
素っ気ない口調も無駄なことを滅多に言わないのも慣れた。
ついでに言えばびっくりするほどの美形ぶりと、びっくりするほど適当な性格にも慣れた。
渡された手順にはところどころ疑問を覚える箇所があって、書き忘れなのか故意なのかはわからないけれど、見たまま作っても咳止めの薬が完成することはないだろうなと思った。
だからと言って素直に質問なんかするのも癪だ。魔術に関する書物だけは大量にある場所なのだ、まずは自分で調べてみてから動くことにしよう。
分類の終わった書類をそのまま細かくわけられた棚にしまっていく。初めはどこに何がどんな法則であるのかもわからなかったが、三年の月日は伊達ではないというころか。
そしてふと、三年も弟子をしていてようやく薬作りかと変におかしくなった。今までなんの疑問にも思っていなかったが、とても悠長なことかもしれない。
とは言え、比べる対象である他の師弟を知らないからわからないのだが。
横目に師匠を見ると、あきれたことに寝る体制になっている。
いつの間にか長椅子の方に移動したようで、大きな体を窮屈そうに寝かせ、顔には薄い本を広げて被せている。一つに編んだ漆黒の髪が床まで垂れて埃が付きそうなのだが――教えてやった方がいいだろうか。
常に何かしらの研究をこなす仕事病のはずなのに、ここ数日はこんな感じだ。ときおり研究に没頭しすぎて食べることも寝ることも忘れ、干からびかけてきたころにフィーリアさんの手を煩わす人なのに、こんな姿は初めて見る。
――何か悩みでも?
それもさっぱり思いつかず、思い当ったところで僕がどうできるはずもない。僕はさっさと薬作りをするために地下室へと向かった。
髪の毛のことは、言い忘れた。わざとじゃない。
師匠がいかに美形か……そのうち描く予定ですが、上手くいくんだろうか――。