12 少年と少年
「さて」
どこか悄然とした小姓三人組の後姿を見送った後、僕の目の前にはまだ少年――テーズが残っていた。
良く見ると彼の額には薄ら汗が滲んでいて、やわらかそうな麦色の髪も湿っている。おそらく剣術訓練か何かが終わったばかりだったのだろう。
「あの、ありがとうございました」
窮地を救ってくれた相手だ。一応は丁寧に礼を言っておく。
けれど何故いまだに彼はここから動かないんだ?
興味深げに僕を観察する瞳は無遠慮で、それを隠す気がないのは丸わかりだった。
もちろん小間使いである僕が異議を申し立てるわけにはいかないんだけれど、言ってみればただの小間使いに何を思っているんだろうか。
「あの……?」
「――水汲みだったね。手伝うよ」
何か突拍子もないことを言われたことだけはわかった。
ぽかんと口を開けてしまった僕をよそに、テーズはしなやかな動きで距離を詰めると、二つあった桶のうち一つをひょいと持ち上げた。縁のぎりぎりまで水が張ってあるからそこそこ重いはずなのだけれど、そこはさすがに儀礼式典を主とするとはいえ武人だ。重そうなそぶりは微塵もない。
そこではっとする。
「え、いえ! 僕の仕事ですから。従騎士様にそんなことは!」
さあ行こうか――なんてあっさりとのたまって、テーズは敷地内を進み出した。
この状況はいったいなんだっていうんだ?
あんな小生意気な小姓はもちろん嫌だけれど、馴れ馴れしい従騎士だなんてそれ以上にまずくないだろうか。こんなところを騎士にでも見つかればお小言では済まない。
「まあいいじゃない。何か言われたら僕から説明するから平気だ」
だから、そこまで面倒を予測してまで水が運びたいんですか。
高貴な身の上の人間は何を考えているかわかったもんじゃないなと、僕は改めて思った。
何か師匠にも通じる強引さを感じて、僕はそれ以上の反論は一つもせずに後をついて行った。
「訊いてもいいかな」
嫌だと言っても無駄だろうなぁと思いつつ、僕は頷いた。
斜め後ろの位置から見えるテーズの横顔は、少しだけ微笑んでいる。
「君は剣を扱える人間かい?」
「え……? いいえ。せいぜい料理用の小刀くらいしか使えません」
「そうか。でも鍛えていないわけじゃないね」
「――なぜそう思われるのですか?」
本来ならば小間使いの身分で質問などしてはいけないはずだ。けれど迷いないテーズの口調に確信の響きを感じて、僕はその禁止事項を少しだけ破った。たぶん彼は怒らないし、むしろ会話を望んでいると思ったから。
案の定、少しだけ見える微笑みは深まって、とろみのある金色の瞳がこちらを向いた。
「君の歩き方は、何かしらの訓練を積んだ者の動きだからね。背筋も伸びているし、足音も極々静かだ。その桶もまるで揺れない。普通、入ったばかりの小間使いは水汲みさせると足元を濡らすものだよ」
思わず見下ろした足元はたしかに乾いたままだ。冷たい思いをしていないのだから当たりまえなんだけど、指摘されて初めてそういうものかと思い至った。
たしかに、この重量感を左右で調節して運ぶのは案外骨が折れるかもしれない。合わせて桶についた取っ手はとこどころ歪んでいる。僕の身長にたいして桶は大き目だし、水はきっちり目一杯汲むように言い含められていた。
試していたとでも言うんだろうか。一介の小間使いなんかを。
「学んだと言えば、養い親に体術を少々。……そういうことはみなさんわかるものですか?」
師匠のことを何と表現するべきかに迷ったけれども、養い親と言えなくもない。そんな感じでいいだろう。
それより気を付けなければならないのは、注目を集めてしまうことだ。テーズが何を思ってこのときに指摘してきたのかはわからないが、切り抜けられた後にも同じように目を付けられてはたまらない。僕は何事もなく、計画終了を待って宮廷から出たいのだから。
「そうだなぁ……軍の人間なら高確率でわかるかもしれない。騎士団でも腕の立つ人や目敏い騎士がいないわけじゃないけれど、その数はそんなに多くないと思う。君はまだそういう人たちとは接触していない気がするな。幸いにも、君は地味な仕事を請け負っているわけだしね」
「従騎士様は、」
「テーズだ」
「は?」
「名前で呼んでほしいな。“従騎士様”だなんて、何十人いると思っているんだい?」
くすくすと可笑しげに笑うテーズは、僕を警戒している様子もない。本当に何を考えているんだろうか。
「――テーズ様は、なぜ僕を気にされたんですか」
地味な仕事とそう言ったその僕に、軍人でも騎士でもない――まだ成長過程のテーズがなぜ気づいたのか。暗に自分の優秀さでもひけらかしているかとも思ったが、そういう雰囲気でもない。
僕の指摘をもっともだと言う風に頷いて、テーズは言った。
「趣味が人間観察なんだ」
「はぁ……」
「従騎士仲間や騎士の方々、小姓や侍女や小間使いや……とにかく目に留まった人物をじっと見てしまうんだよね」
「楽しいですか」
「楽しいよ。欠伸の数を数えたり、妙な癖を見つけて密かに面白がってたり。どこぞの侍女に気があるとか、逆に気を持たれているとか。体調や機嫌の良し悪しなんかに敏感になれれば、上官の理不尽な嫌味に落ち込むこともないしね」
前半はともかく、後半はなるほどと思った。
いくら貴族階級の人間が大半を占めているとは言っても、武人は武人だ。縦方向への力関係は他の機関よりもずっと厳しいはずだし、折り合いの悪い軍関係者に対抗するためにも結束力を保っておきたいと考えるだろう。必然的に騎士個人の手足となる従騎士にもなれば、上官の機嫌一つに振り回される機会も多くなる。八つ当たりなんか日常茶飯事だろう。
「最近ことさら君を目で追ってしまっていたのは、君も周囲の人間を良く見ていることがわかったからかな」
「そう、でしょうか」
「この水汲みを言いつけた騎士の名前を覚えていたろう」
「ロックシュア様?」
「そう。いちいち名乗ったりしない人物の顔と名前が、よく一致するものだと思うけど」
「たまたまでは……」
「ふうん? ――まあ、そういうことにしておこうか」
まずい……よな。
この人の中で、僕という人間に対する警戒心が高まっている気がする。目を付けられた時点でもう終わり? 早く脱出の手当でも考えていた方がいいのかな。いきなりここで捕縛されたりとかしたらどうしよう。いや、まだ何もしてないし、特にする気もないんだけど……そういうことじゃないよね。怪しい者はとりあえず罰するっていうのが鉄則だよね、こういう場所では。
たしかに僕は、騎士団の名簿を空で完成させられる日も間近なほどには、その顔と名前を記憶しているし、略歴程度ならば調べている。さっきの三人組の名前だって本当はずらずら言い並べられる――ヨラウ・ドゥナ・ペールゼン、ハスヴィ・ジーヌ、ライナー・スラプトル――家名も広く世間に知れている大貴族の仲良しお坊ちゃんたちで、将来の騎士団幹部候補だ。
師匠に言いつけられた情報収集がいったい何を主としていいのかもわからないから、こんな地味なことをしている。もともと顔を覚えるのは得意な方だったけれど、家名の上下などは皆目見当もつかなかった。貴族名鑑を見ながら徹夜していることなど、誰も知らない努力だ。
それが初期段階で台無しになるかもしれないということは、何だか違った方向で恐怖だった。捕まるのがどうこうというよりは、この数日間の睡眠時間を返せと言いたくなる。
テーズに抱かれそうな疑惑を晴らすため、猛烈に思考することを試みているのだけれど、頭の中で変に冷静さを保っている部分もあった。
例えて言うならばそれは“勘”というような部分で、僕の中に封じられた魔力か何かが、このテーズという人物に対して警報を鳴らしてはいないのだ。他人に言えば何だそれはと言われそうだけれども、僕は自分の賢さにも腕力にも自信がない代わりに、その感覚はけっこう高く自己評価していた。
そんな僕を知るはずもないのに、テーズはどこか浮かれたような笑みを見せてこう言った。
「まあ、君が誰であってもいいんだけれどね。物騒なことを考えられるのは困るけれど」
「え……」
「そういう計画でもある?」
「いえ、特には……?」
「ならいいよ」
いやよくないだろ! ……と、もちろん僕は脳内で言って置いた。
言葉の上で相手が否定していても信用材料にはならない。人間観察が趣味だというテーズがそれを知らないはずはないのだから、きっと本来が楽観的な性質なのだろう。でなければ、思いもがけない出来事が起こることを期待している――言うなればラスディのような人間か。出来れば前者であってほしい。身近に嵐は二つもいらない。
「年が近い従騎士もいるにはいるんだけれど、お互いに遠慮してしまってね。君はいくつになる?」
「……十三です」
「同い年だ。仲良くやろう」
いやいやいや、小間使いと従騎士は仲良くやれませんって。
僕の内心なんて透かし見ているだろうに、テーズは左手を差し出した。桶を一個ずつ持っているのだから片手は開いているけれど、素直に伸ばせるわけがない。
「テーズ・ディラルクだ」
駄目押しとばかりに自己紹介までされて、僕は観念するしかなかった。同じように左手で握り返しつつ、リックです、と嫌々名乗る。
知っているよと再び歩き出したテーズの後姿はゆったりと楽しげで、また奇妙な人間と知り合いになってしまった自分の運命の滑稽さに、僕は深く息を吐くしかなかった。
そしてこの日の出会いから後、地方の古い男爵家出身であるテーズは、ことあるごとに僕を構いに出没することになる。
ラスディ属性な疑惑の少年が登場です(笑)
牛歩の如しなストーリー展開……まあ、ほのぼの日常ですので、目指すのは。