第9話
クライヴのところから一旦部屋に戻り、ハノンを部屋に送り届けると執務室へと向かった。
エドゥアルドは面白くない想いを抱えていた。
その理由をエドゥアルド自身把握出来ていなかった。ハノンは、彼女に嫉妬したのだろうとからかったが、決してそんなことはなかった。強いて言うならその逆だ。エドゥアルドは、ハノンと仲の良いクライヴに妬いていたのかもしれない。
使役魔獣が自分以外の人間と楽しくしているだけで、イライラするなんて、馬鹿げている。
だが、不思議なことにハノンと話していると、女性と話していると勘違いすることがある。ハノンが微笑めば、微笑んだのだなと分かるだけじゃなく、不思議と女の顔が浮かぶ。大人と子供の両方の魅力を持ち合わせている、美しい少女だ。ハノンを見ていると、時折少女の顔が姿を現わす。
その少女の笑顔にどきりとしてしまうことが何度かあった。
「殿下。申し訳ありません。少し時間を頂けないでしょうか? お話があります。ハノンのことで」
アナに呼び止められ、エドゥアルドは足を止めた。
「ハノンのことでか?」
「先日の池でのことについて、殿下にお話していないことがあります。殿下の耳に入れておいたほうがよろしいかと」
アナからは、あの日の状況は既に聞いてあった。わざわざ持ち出してきたということは、まだ話していないことがあったのだろう。
「話してみろ」
アナがビバルを横目でちらりと窺った。
「なんだ。ビバルに話せないことか? 私はビバルを信用している、気にせず話してみろ」
「はい。あの日、ハノンが川に飛び込んでクライヴ殿下を助けだしたとお話しましたが、その時、私は信じられないものを目にしました。池に入ったハノンの姿が……」
そこで、戸惑ったようにアナが口をつぐんだ。言っていいものか悩んでいるように見える。
暫く待ってやると、覚悟を決めたように口を開いた。
「池の中に飛び込んだハノンの姿が少女の姿に変わったのです。少女の姿に変わった瞬間を見たわけではありませんので、クライヴ殿下を抱えてその少女が顔を出した時、見知らぬ少女が助けてくれたのだと思いました。まず私が驚いたのは、その少女が黒い髪に黒い瞳をしていたことです。けれどそのあと目にした光景は、さらに私を驚かせました。その少女が池から一足出た途端、その姿は魔獣のハノンの姿に変わっていったのです。ハノンは、自分が少女に姿を変えたことに気付いていなかったようです。私が驚いている姿を見て、首を傾げていました」
思い切ったように一気に話し切ったアナは、ふぅっと息を吐いた。
エドゥアルドの隣でビバルがあんぐりと口を開けていた。
しかし、エドゥアルドは驚いてはいなかった。恐らくエドゥアルドが度々見ていた少女の顔が、アナが見たその少女なのだろう。
思い浮かぶのは、ハノンと出会った時のことだ。あの時、ハノンと一緒にいたのは魔女だった。そして、その魔女が出現させただろう巨大な鏡を前にして、凍り付いたように自分の姿を凝視していたハノン。そして、あの日ハノンが言った言葉。
『私、本当は人間なんだ』
それに加え、エドゥアルドと共に寝ることを必要以上に抵抗してみせたり、自分が女であることを強調してみたり。
もし、仮にハノンが本当に少女であるのなら、魔女に魔獣に変えられてしまったとみていいのではないか。
「もし、本当にハノンが少女であるのなら、どうやったら元に戻る……?」
誰に問いかけるでもなく、敢えて言うのなら自分に問いかけるようにエドゥアルドは呟いた。
魔女によって呪いがかけられたのだと推察すると、何をすればハノンを元に戻せるのかが問題になってくる。ハノンが池に身を沈めたことで元の姿に戻ったのは一時的なものであろう。
「本当にハノンが人間であるのかは一概にそうとは言えないが、私がハノンと出会った時の背景を考えると、そうである可能性は高いように思う。とにかく、ハノンがどんなときに姿を戻すのか探る必要がある。アナ。ハノンが少女の姿になった時、服は身に付けていたのか?」
「いいえ。何も身に付けていませんでした」
ハノンがエドゥアルドと歩いている時に、突然裸の姿で現れたとなると、騒動になりかねない。
事前にハノンの状況を把握する必要がある。
エドゥアルドが少女を襲ったなどと、恐ろしい噂がたってはことだ。
「そうか。それは厄介だな」
「はい、私もそう思います。城の者が見たときのことを考えると……。殿下、私は水が関係しているのではないかと思うのです。ハノンは湯浴みをするときには、変化は見られません。お湯ではないのであれば、水」
嫌がるハノンと無理矢理風呂を共にしたことがあるが(あまりに暴れて大変だったので今は入っていない)、ハノンの姿は魔獣の姿のままだった。
「よし。かけてみるか、水を」
カーティウェル王国の気候は年中初夏の陽気で、とても過ごしやすい。
水をかけても風邪を引く心配はないはずだ。
「では、殿下がやって下さいね」
今まで発言を控えていたビバルが(恐らく話の内容についていけなかったのだろう)、そう言った。
「なんで私なんだ?」
「それは、私もアナもハノンに嫌われたくないですから。殿下は普段から酷い言われようだし大丈夫でしょう?」
すました顔で事もなげに言う幼なじみのバベルを、じろりと睨み付けた。
「私だって嫌われたくはない」
エドゥアルドは、ハノンを気に入っていた。王族に対する態度は失礼だし、口も悪いがその自然体の彼女がエドゥアルドを安心させているのは確かだ。あんなにはっきりとエドゥアルドにものを言えるのは、ビバルとハノンくらいなものだ。ビバルであっても側近になってからは、分をわきまえてあまり言わなくなっている。よって今表立って言えるのはハノンだけなのだ。
ナルシストだの、スケベだの散々な言われようだが、それが不思議と不快には感じない。
エドゥアルドと同じようにアナやビバルもそう思っているのかもしれない。
無性にハノンの人としての姿を見たくなった。アナは黒い髪に黒い瞳をしていたと言っていた。忌み嫌われる存在である異色の少女。貴族の殆どが不快を感じるだろうそれに興味がある。
ふと、ある噂を思い出した。確か異色の少女が侍女として城で働き始めたと言っていたんじゃなかったか。もしかして、その少女がハノンなのではないのか。
「分かった。水は私がかける。ビバル、一度女官長と話がしたいんだが、彼女の仕事が一段落した頃で構わないから呼んでくれ。私は先に執務室へ行っている。アナはハノンを頼む」
「「はっ」」
二人は短い返事をしたあと、散り散りと去っていった。
エドゥアルドは、一人考えていた。ハノンは、人としての人生を全うするのと、魔獣としての人生を全うするのとではどちらが幸せなのだろうかと。 人であってもハノンの髪と瞳の色がある限り苦労は絶えないだろう。そして魔獣であっても黒の魔獣として、人の欲と悪に巻き込まれることになる。
いやしかし、まだハノンが人であると決まったわけではないのだ。
いっそ魔女に直接問い質せばいいのではないか。あの魔女が正直に話すとは思えないが。
エドゥアルドは、大きく息を吐いた。
ハノンのことを考えると、胸が痛くなった。
なんて不憫なんだ……。