第87話
エドゥアルドが何かに引き込まれるように近付いてくる。その間、ハノンから目を離すことは一度もなかった。
ハノンは、別邸の門の前にエドゥアルドたちの姿を確認して固まった。
エドゥアルドに会いに行くつもりでいた。きっぱりとフッて貰うために。
まさかハノンをフる為にエドゥアルドがわざわざここまで来るとは思っていなかった。
エドゥアルドの隣にマルヴィナがいることに絶望していた。
ハノンの前で、
「私はマルヴィナと結婚する」
と、宣言するために一緒に連れてきたのか。だとしたら、なんとむごたらしいことをするんだろうか。
エドゥアルドとマルヴィナの後ろには、ビバルとカイル、そして暫く顔を見ていなかったアナの姿があった。
マルヴィナの付き添いで来たのだろう。どんな理由にしろ、アナともう一度再会できて良かった。
ハノンがぼっとしている間に、オルグレン大公がエドゥアルドと挨拶を交わしていた。
「ハノン。部屋に入りなさい」
そう言われて、漸く身体を動かした。部屋に入り、子供たちの先生であるキャシーに子供たちをまかせる旨を伝え、使用人の娘であるケイトを探した。探す迄もなくケイトは部屋の前に待ち構えており、乱暴に服を脱がされシンプルだが客人に失礼のないドレスを着せられた。怒濤の速さでハノンの身仕度を整えるケイトに呆気に取られながら、心の準備を整えていた。
見られる姿に施されたハノンは、応接間に向かう。客人よりも早く部屋にいて、迎え入れなければ。
ハノンが応接間に入ってすぐに一向が部屋に入ってきた。
久しぶりのエドゥアルドは、なんだか少しだけ痩せたように見える。
ハノンがエドゥアルドから目が放せないように、エドゥアルドもハノンから目が放せないようだった。
そして、冒頭に戻るのだ。ハノンの目の前に立ったエドゥアルドを見上げ、ハノンは身構えた。
何を言われても傷付かないように。
エドゥアルドはハノンの予想に反して、何も言葉を発しなかった。その代わり、ハノンを掻き抱いた。
ついこの間まで毎日嗅いでいたエドゥアルドの匂いが、幸せな二人の日々を思い出させ、鼻の奥がツンとした。
こんなところで涙は見せちゃいけない。エドゥアルドが帰るまで我慢しなきゃダメだ。
ハノンは歯を食い縛って涙をこらえた。
「ハノン」
ハノンの好きな声。
心臓を抉られるような苦しさを伴っていた。
何か言わなきゃいけないのに、口を開いた途端に涙は出て来るだろう。
最後くらい涙は見せたくない。最後の自分は笑顔でいたいから。
「エドゥアルド殿下。取り敢えず座って下さい。ハノン。お茶を用意してくれるかい?」
これ以上はヤバかったから、オルグレン大公の言葉は助かった。
ケイトが持ってきてくれた茶器を受け取り、紅茶を入れはじめた。
紅茶を入れるという行為で少しだけエドゥアルドを頭の中から追い出すことが出来た。あのままでは、ハノンは泣き叫んでいたかもしれない。それだけはしたくなかった。
「オルグレン卿。あの子供たちは一体」
ビバルが外ではしゃぐ子供たちに目をやりながらそう問い掛けた。
「この建物を孤児院にしたんだよ。この家は殆ど使われていなかったからね。ハノンのアイディアなんだ」
オルグレン大公が自慢げにそう言うものだから、顔が熱くなった。
「それはいいですね。子供たちも幸せそうです」
子供たちがここに来てくれたおかげでハノンは笑っていられた。彼らがいなければハノンは部屋に閉じこもって泣いていただろう。
最初は自分に子供の面倒など見れるかと、不安もあったが、不安など彼らに会って笑顔で挨拶されたらどこかに飛んでいってしまった。
ハノンはエドゥアルドとマルヴィナの前にカップを置いた。
エドゥアルドが一口飲んで、美味しい、と口角を上げたのを見て、ハノンもつられて微笑んでいた。
カップを置いたエドゥアルドは、オルグレン大公を見た。
「オルグレン卿。申し訳ありませんが、ハノンとマルヴィナの三人だけで話をさせて貰えませんか?」
視線を交わす二人をハノンは不安げに交互に見ていた。
「ええ、構いません」
オルグレン大公はビバルらを促して部屋を辞した。
ハノンは居心地の悪さを感じていた。というのも前に座る二人に強い視線を向けられているからだ。
「ハノン。お前がいなくて私がどれだけ苦しんだか分かるか?」
苦しんだ? なぜ?
エドゥアルドにはマルヴィナがいるではないか。
「そうか。ハノンには私の気持ちが分かっていなかったんだな。誤解があるんだ」
誤解……はしていないと思うが。
「エド、もしかしてこの子知らないのね?」
「お前が誰かに言ったら殺すと言ったんだろ?」
「あら、そうだったかしら?」
二人は仲が良い。
そんな様子をハノンに突き付けるためにわざわざ来たんだろうか。
それはなんて残酷なんだろう。
「もう、落ち込んでるじゃない。早く言ったら? なんなら私が慰めてあげようか? 私はエドみたいに泣かせないから、私のところに来てもいいわよ? 私、あなたのこと気に入っちゃった。連れ帰ろうかしら」
「へ?」
「冗談は止せ」
「冗談じゃないのは、エドが一番分かってるんじゃない? だから、私をこの子に近付けなかったんでしょ?」
ふふん、と鼻を鳴らして、立ち上がるとマルヴィナはハノンの隣に来て座り、ハノンの肩を抱いた。
「優しくするよ」
耳元で聞こえた声は、男のものだった。そして、頬に柔らかく温かい何かが触れた。
びっくりしてマルヴィナを見た。にやりと悪戯な笑いを浮かべている。
「いい加減にしろ、マルヴィナ。ハノンは私のものだっ」
怒鳴り声と共にエドゥアルドに抱き上げられ、エドゥアルドは元の場所に腰をかけるとハノンをその膝の上に横向きにして乗せた。
「えっ、あのっ、エド殿下?」
エドゥアルドがマルヴィナに腹を立てているのは理解できる。
理解できないのはその理由。まるでマルヴィナにヤキモチを妬いているように見える。まるでハノンを好きで仕方ないように見える。
あれ、でも違うよね?
何かが間違っているような気がする。だが、何が違うのかいまいちピンとこなかった。
「お前にはマルヴィナが女に見えるか?」
「えっ、うん。それはもう奇麗な女の人に見えるけど……」
「まあ、ありがとう。ハノンはいい子ね」
頬に手を当て、もじもじする姿はどこからどう見ても女の人で、エドゥアルドがなぜそんなことを聞くのか分からなかった。
「マルヴィナは男だ」
「は?」
男……というのは、あの男という意味だろうか?
「そう、私は男なの。正真正銘の男。なんならここで裸になってもいいのよ」
「でも、どう見たって」
「この格好はこいつの趣味だ。こいつは女であり、私の婚約者でも恋人でもない。私に男色の趣味はないし、マルヴィナもこう見えて無類の女好きだ。これで分かっただろう? 私がこいつと仲がいいのは、男友達だからだ。一見そうは見えないがな。そもそも、私がこいつを婚約者だと言ったことはないだろう?」
確か、ハノンがエドゥアルドに「婚約者が現れたの?」と尋ねた時、返答はなかった。無言は肯定であると勝手に結論付けたのはハノンであった。
「女装なの?」
「女装なのよ、フフッ」
マルヴィナが笑顔でそう答える。
ああ、この笑顔に騙されていたのだ。そう思うと一気に力が抜けた。
次話、最終話となります。