第84話
ハゲ頭に過剰な誉め言葉を貰い、疲れ果てていたハノンに、張りつく視線を辿ればハゲ頭の息子がねっとりと視線を向けていた。
残念なことに、どうやらハノンは見合い相手に気に入られてしまったようだ。
「これが私の息子、マルクスだよ。是非仲良くしてくれ」
「よろしくお願いします」
とてもじゃないがよろしくしたいとは思えなかった。
獲物に狙いをつける獣を彷彿とさせるその目は、ハノンを怯えさせさえすれ、好意をもつなど有り得ない。
オルグレン大公は始終笑顔を絶やさずにいるが、ハノンがどう考えているか分かっているのだろう。チラチラとハノンの様子を窺っている。
オルグレン大公の娘になった以上、結婚するまでこのような煩わしい顔合わせは何度も催されるだろう。
それを好ましいとは思えないが、娘としての務めは全うするつもりでいる。身分の高い家に養子に入るということは元より覚悟の上だ。
四人が向かい合って座り、親同士がなんとか盛り上げようとする中、ぼそりぼそりと控えめに会話を交わす。
正直どうでもいい質問しかされず、なかなか話が盛り上がらない。それでもなおあの強い目は相変わらずハノンを捕らえていた。
「さあ、そろそろ私たちは席を外そうじゃないか」
ハゲ頭に促されてオルグレン大公が引き摺られるように連れていかれた。
そういう展開にされるだろうことは予め予期していたが、あまりに唐突でハノンは唖然としていた。
「あの、外を散歩でもしませんか?」
ハノンはマルクスと二人で密室に閉じ込められていることに耐えられずにそう言った。
「そうですね。案内していただけますか?」
案内出来るほどにオルグレン家の庭園は詳しくないが、王城の庭園に比べれば遥かに規模が小さいので、迷子になることはないだろうと了承した。
オルグレン家の庭園は王城のそれと比べれば派手さはないが、素朴さがあってハノンは好きだ。
隣を歩くのがもっと違う誰かなら、言うことはなかったのだが。
「あなたの噂は聞いていました。言いづらいが、あなたはエドゥアルド殿下の恋人だったはず。なぜこんなところで見合いなどしているのですか?」
人の痛いところをズバズバと……。
答えなどハノンに聞かなくても分かっているだろうに。
「エドゥアルド殿下には相応しいお相手がいらっしゃいます。私では不釣り合いです」
「そんなことはないとは思いますが、だが、そのお陰で私にもチャンスがめぐってきた。願ったり叶ったりです」
ハノンがエドゥアルドとダメになったところで、マルクスとどうこうなる可能性は100パーセントない。
エドゥアルドがいなくなれば、次は間違いなく自分だと信じて疑わない傲慢なマルクスをどうやって好きになれると言うのだろうか。
エドゥアルドは優しかった。自分のことよりもハノンのことを一番に考えてくれていた。最初は、ナルシストだと決め付けていたけど、そんなことはなくて、目の前にいるこの男の方がよっぽどナルシストだ。エドゥアルドがハノンを見るときの眼差しはいつでも輝いていて、愛されていると実感できた。決してハノンを狩人のような目で見たことはない。
「ハノン。どうかしましたか?」
馴れ馴れしく名前を呼ばれるのにも鳥肌が立った。
初めて恋をした相手が完璧すぎた(?)のかもしれない。
初めての相手がもっとダメな男だったなら、こんな想いはしなかったかもしれない。案外すんなりとマルクスを受け入れられただろう。
「なんでもありません」
「それなら良かった。私なら、あなたを幸せにしてあげられますよ」
ハノンは隣を歩く男の顔を見なかった。見れば見たくもないぎらついたあの目を拝まなければならない。
だが、この時ハノンは見上げれば良かったのだ。目は口ほどにものを言うのだから。
「あなたはもう私のものだ。あなたは私の妻になるのだ」
その声があまりにも耳元近くで聞こえたので、飛び退こうとした。
だが、いつの間にか捕らえられていた手に身動きが取れない。
野獣のような男は鼻息荒くハノンを見下ろしていた。
まさか、こんなところで見合い相手に手を出そうなんて思いもよらなかった。
考え事をしてぼんやりと意識を飛ばしていたハノンには、自分が今庭園のどのあたりにいるのか把握していない。だが、マルクスを睨みつけながら、横目で廻りを窺ったところ、この辺りは屋敷から死角になっているところらしかった。
ようはぼんやりとしているハノンをさりげなく誘導して、人気のない、人目のつかないこの場所まで連れて来たということだ。
もし、マルクスの手を振り切って逃げたとして、どの方向に走れば彼を振り切れるのかハノンには分からない。ここがもし王城であったなら、いくらでも逃げようがあったのに。
「私はあなたのものではありません。今日お会いしたばかりですよ。手を放して下さい。お父様のところへ戻ります」
手を引き戻そうとするが、男の力に叶う筈もなくびくともしない。
恐怖と焦りでイヤな汗が背筋を伝う。
「私はあなたの夫になるのですよ。抱きしめるくらいいいじゃないですか」
そう言うと、握りしめていた手を強引に引き寄せハノンを胸に抱いた。
嗅いだことのない他人の匂い、頭上から聞こえてくる荒い息、恐怖で体が震えた。
「ああ、怖がらないで。私はあなたの愛すべき夫になるのだから」
この人は気が触れているのではないかとハノンは思った。
ハノンは何の返事もしていないというのに、先ほどからハノンが自分の妻になるものだと思い込んでいる。自分でそう思い込んでしまったのか、それともあのハゲ頭に刷り込まれてしまったのか。
とにかく現状はあまりにもハノンに悪いものだった。
結婚のことはオルグレン大公と相談すればなんとかなるかもしれない。問題は今だ。今、この状況をどうやって打破するかなのだ。
魔法を使って屋敷の中に飛んでしまおうか。だが、出来れば無暗に魔法を使いたくはない。本当に危なくなったらそうするのもやぶさかないが。
マルクスの胸に不快感を抱きながら、何とか打開策を考えあぐねていたが、中々いい案は見当たらない。
「放して下さい」
あまりに弱々しい声にハノンは愕然とした。
一人では、こんな男も振り払えないのか。
マルクスが次の行動を起こしたのは、ハノンが悔しさに沈んでいる時だった。
ハノンの顎を掴み、上を向かせる。
その次にどんな行動が待っているか、今のハノンなら容易に想像できる。だが、その行為はエドゥアルド以外の男に許すつもりはなかった。
もうこうなったら、屋敷に飛ぶしかないと思うのだが、動揺したハノンが魔法を使うのはあまりに危険だった。魔法を使うには気持ちを落ち着かせなければならない。特にまだまだ半人前のハノンがその状態で魔法を使えばいらない魔法まで発動させてしまうことがあり、非常に危険なのだ。だから、常々イルゼから止められていた。
気持ちを落ち着かせようとするが、マルクスの顔が少しずつ近づいてくるのを見ると平常心ではいられない。
もう、ダメかもしれない。そう思うと、涙が出て来た。
近づいてくるマルクスの顔を見ていられなくてギュッと目を閉じた。そんなハノンを見て、マルクスはキスを了承したと思ったことだろう。
だが、次の瞬間、近付いていたマルクスの気配が遠退いた。




