第82話
信じてくれている、そう思っていたエドゥアルドはハノンが消えた事実を知り、愕然とした。
「ハノンはもう戻らない」
普段しゃべらないカイルがいつになく饒舌で、エドゥアルドを軽蔑するようなその目はカイルの気持ちを代弁しているようなものだ。
「あなたは間違った。ハノンはそんなに強くない」
エドゥアルドに忠実に尽くしていたカイルにそこまで言わせてしまったことを恥じるべきだ。
「ハノンは知らない。ハノンの不安は大きかった」
エドゥアルドやビバル、アナ、カイルらはマルヴィナの秘密を知っている。勿論、王族とごく限られた人間も知っていた。
ハノンに知らせなかったのは、エドゥアルドの我が儘でしかなかった。
ハノンは、エドゥアルドがどれだけ彼女を愛しているか知っていた。だから、大丈夫だと安心していた。
今の状況を自分に置き換えてみて、息の出来ないほどの苦しみを感じ、愕然とする。
ただただ早くハノンとの未来を築くために、あれを排除することだけに躍起になっていた。
「ハノンは泣いていた」
殴られたような痛みを感じた。
ハノンを泣かせないために動いていたはずだった。それが、逆にハノンを追い詰めることになっていたのだ。
「あの男に取られる」
「あの男? カイル、答えろ。あの男とは誰だっ」
ハノンに忍び寄る影がいるなどと、思いもしなかった。イヤ、この城の中にいるはずはない。であるのなら浮かび上がるのはあの男しかいない。
「……バウティスタ」
カイルは返事をせずに押し黙っていたが、その目を見れば分かる。それが正解なのだと。
あそこにはイルゼが目を光らせているから大丈夫だと思っていた。イルゼは自分のお眼鏡に叶った男しかハノンに近付かせない。ということは、バウティスタがイルゼに認められるほどの男に成長したということだ。
「バウティスタは、ハノンに好意を持っているんだな」
「間違いなく」
エドゥアルドは肩を落とした。自分のしたことがことごとく裏目裏目に出ていく。
エドゥアルドが頭を抱えていると、執務室のドアがノックされた。
エドゥアルドとカイルのことの成り行きを見守っていたビバルが取り次ぐ。
「オルグレン卿がお見えになりました」
「通してくれ」
すぐにオルグレン大公が姿を見せた。
ビバルに視線を送って席を外させた。
エドゥアルドとオルグレン大公二人だけになった執務室に一瞬の沈黙が生じた。
「仕事中に邪魔をして申し訳ない。少し殿下と話がしたくてね」
話の内容がハノンのことであることは分かっている。
「ハノンの……ことですね?」
オルグレン大公は苦笑しながら頷くと、口を開いた。口を開いた途端に穏やかな顔が厳しい顔へと変わっていった。
「イルゼの家にハノンが姿を現し、私たちの姿を見たとき、彼女は泣き崩れた。余程我慢していたんだろう。泣く場所さえなかったんだろうね」
エドゥアルドが傍にいなかったために、アナをハノンから遠ざけてしまったが為に、ハノンは泣く場所を失い一人で堪えていたのだ。
「……エドゥアルド殿下。ハノンは私の娘です。あんな風に泣かせたくはない。散々ハノンを苦しめた私が言うには勝手な言い分かもしれないが、私はハノンにあんな風に泣いてほしくはないんだ。ハノンは殿下から離れる決心をしました。だから今はそっとしておいてくれないでしょうか。ハノンの傷が癒えたら、彼女を愛してくれる誰かと結婚することもあるでしょう。すでに殿下とハノンの道は分かれたのです。殿下には殿下に合った相手をお探しください」
自分の知らないところで話が進んでしまっている。酷く心許なく苛立たしい気分だ。
二人の道が分かれたとは何だ? ハノンが結婚する? 殿下には殿下に合った相手を探せ、だと?
冗談じゃない。
「私はまだハノンと話してさえいないんです。別れてなんかいないっ」
「では、殿下はハノンと話をしようとしていたんですか? 殿下はハノンが苦しんでいたのを知っていましたか?」
答えられなかった。
エドゥアルドにとって痛い質問ばかりだ。確かにオルグレン大公が言うとおり、エドゥアルドは何もしてこなかった。何も分かっていなかった。ちゃんと見れていなかったのだ。
「私は昔、酷く後悔したことがあります。去っていく恋人を止めることが出来なかった。全てを投げうってでも彼女をつなぎ止めておけばよかったと、あの頃を思い出すと悔いてならない。全てを捨てる覚悟は出来ていたのに、実際には動けなかった」
突然始めた昔話にエドゥアルドはオルグレン大公を見つめた。
オルグレン大公は何かを訴えるような強い目でエドゥアルドを見据えていた。
ハノンを泣かせたことを責めに来たんだと思った。だが、それは思い違いかもしれない。
オルグレン大公はエドゥアルドに叱咤激励しにきたのだ。
「私はハノンを諦めません。私にとってハノンは唯一無二の存在です。後悔などしません。私は動きます」
「殿下を信じてもよろしいんですね?」
「勿論だ」
そこでようやくオルグレン大公に笑顔が戻った。
「あなたにそれなりの覚悟があるのなら、私の提案を聞いていただけますか?」
オルグレン大公が話しだすのをエドゥアルドは黙って見ていた。
本邸よりは小ぶりではあるが、それでも十分豪邸と言われるオルグレン家の別邸を見上げ、ハノンは呆れ返っていた。
「別邸なのにこの大きさ。ほとんどここに誰も住んでいないなら、孤児院にでもすればいいのに……」
何気なく呟いたその言葉に、オルグレン大公は大袈裟に驚いた。
「ハノンっ。それはいいアイディアだ。町にある孤児院は古くて寂びれている。子供たちの健康にも良くない環境だ。ここなら、快適に過ごせるだろう。私はハノンが本邸にいるなら、ここに来ることもない。孤児院への援助はオルグレン家で全面的にするとしよう。どうかな?」
「凄く良いと思う。子供たちは幸せになれるかな?」
「なれたらいいね」
親のいない子供たち。孤児院に来る子供たちの生い立ちは様々だが、親に愛された記憶のない子供たちが殆どだ。
ここを孤児院に解放したからといって、子供たちの心が満たされるわけではないだろう。だが、良い環境で過ごせば少しは心にゆとりも出てくるだろう。
沈んだ気持ちに追い打ちをかけるような寂れた建物は、人の心を蝕むこともある。
「お父様っ。私、ここに孤児院が出来たら、子供たちのお世話のお手伝いをしたいんだけど。いいかな?」
「ハノンがしたいことをしたらいいよ。私は止めたりしない。ハノンが愛を忘れた子供たちに愛を与えてあげるといい」
「うんっ」
オルグレン家に入って、自分にすることがなくて鬱々としていた。家の中に閉じ込められているわけではないが、何もすることがないのは張り合いがない。
家の外に出るのはいいが、近所の人がハノンを物珍しそうに眺めて行くのを感じるのはあまり気分のいいものではない。なまじエドゥアルドの恋人が黒髪の少女だ、という噂が町の中まで広がっているので、好奇心の目は半端ないものがあるのだ。
とにかく自分になすべきことが出来たことが、ハノンには嬉しいことだった。
「お父様っ。孤児院にするのはいいけど、その前に私にあの部屋を見せて」
危うく目的を忘れそうになったハノンは、オルグレン大公の腕を取って屋敷の中へと引っ張っていった。