第80話
ハノンの幸せにはもう一つある。それは、イルゼとオルグレン大公だ。
イルゼと出会ってからの期間はとても短いが、接した密度は濃い。何よりハノンを愛してくれているし、ハノン自身も大切だと思う。
オルグレン大公とは過去に色々あった。けれど、それがあったからこそ、二人の絆は強いように思う。
二人が幸せになることがハノンの幸せなら、オルグレン家で暮らすのもいいかもしれない。
ゆっくりと歩きながら空を見上げ、ふと足を止めた。青い空を群れをなした鳥が横切っていく。
あの群れは家族なんだろうか。
家族……。
ハノンには家族がいる。けれど、バラバラに暮らしている。そのことがなんだかおかしなことに思えた。罪深いことに思えた。
「ハノン?」
呼び掛ける声にゆっくり振り返ると、バウティスタが気遣わしげにこちらを見ていた。
「私は大丈夫だよ」
そう言って再び視線を空に戻した。すでに鳥の姿はどこにもない。
「ハノン」
バウティスタの声がすぐ横から聞こえた。
「バウティスタさんは優しいね? そんなに心配しなくても、大丈夫なのに」
「私は君が好きだよ、ハノン。私を君の伴侶に選んでくれない?」
「オルグレン家に行って、私の将来の夫はバウティスタさん?それもありかもしれないね。でもね、私はエドゥアルドが大好きなんだよ?」
バウティスタはハノンに同情している。そうでなければ……。
「あっ、分かった。イルゼさんがオルグレン大公のところに行っちゃったら一人になるから? 自分の居場所がほしいんでしょ? だから、そんなこと言うんでしょ」
それはハノンも同じだ。一人になるのは辛い。こんなにも一人になることが怖いと思うようになったのは、それだけ幸せな時を経験してしまったせいだ。
「そうかもしれないね。一人になるのは辛い。でも、私は君のことが本当に好きだよ。その気持ちを否定されるのは面白くない」
思いがけず不機嫌な声をバウティスタが出したので、ハノンは焦った。
「ごめんなさい。そんなつもりじゃなかったんだけど……」
「怒ってはいないよ。どんなつもりでもいい、私のことも少しは考えてみて」
がらりと優しい声音に戻ってバウティスタは言い、家の中に戻っていった。
ハノンはその背中を見えなくなるまで見届けていた。素直にバウティスタの気持ちを嬉しいと思った。
バウティスタはハノンにとって心を許した存在だった。だからこそ、バウティスタの前で泣くことが出来たのだ。
チチェスター家の人々は今ごろどうしているだろう。ふと浮かんだあの温かい家族を思い出していた。 優しい人たちのことだ、ハノンが選んだ道を手放しで応援してくれるだろう。
一度、会いに行ってみようか。
明日にでも会いに行ってみようと決心すると、少し心が軽くなった。
翌日、ハノンはチチェスター家へ向かった。
イルゼとオルグレン大公はハノンがそう言いだすことを予想していたのか、快く送り出してくれた。
チチェスター家の近くの路地裏に飛び、辺りを確認した。誰にも見られていないことを確認すると、何事もなかったように歩きだした。
思い立って来てしまったが、チチェスター家の人々が旅に出ていやしないか、今更ながらに考えた。
その扉をノックするのは初めてでなんだか緊張した。ハノンがこの家に入るときは必ず誰かと一緒で、 だからこんな風に客のようにノックするのは初めてなのだ。
顔馴染みの侍女に出迎えられ、部屋の中に案内された。
急に来てしまって不在かと懸念していたが、幸い皆家にいたようだ。
ハノンの来訪を聞いたそれぞれが息を切らして部屋に入ってくる。そんなに慌てなくてもすぐに帰るわけでもないのに。
「ハノン。久しぶりだな。あんまり顔を出さないから、忘れられたのかと思ったぜ」
ジェロームが入ってきて、開口一番にそう言った。
「忘れるわけないじゃん。何言ってんの」
あからさまにホッとした表情を浮かべるジェロームにハノンは首を傾げた。
「なんか変だよ? どうしたの?」
「私たちはハノンが可愛いんだよ。話はオルグレン卿から全て聞いた。血の繋がった父親がいるのなら、一緒に暮らす方がいいんだろう。だが、淋しくなる。娘が出来たと思っていたのにな」
チチェスター侯爵が肩を下げてそう言った。
そんな風に思ってくれていることに嬉しさを感じずにいられない。
「ありがとう、お父様。私、お父様にもお母様にもお兄様にも感謝しています。家族というものを教えてくれました。戸籍上他人になってしまったとしても、私には三人がずっと私のもう一つの家族だと思いたい……けど、迷惑だよね」
「迷惑だなんてあるわけがないわ。あなたは私たちの娘だもの。いつでも遊びに来てね」
チチェスター家の人々はやはり優しい。とことんまでに優しい。
素性の分からないハノンを家族として受け入れ、素性が知れても、変わらず娘として見てくれる。
「だけど、ハノン。エドゥアルド殿下はこのこと知っているのか? あの……なんだ。殿下はその……」
歯切れの悪いジェロームに苦笑して、その手助けをする。
「マルヴィナ様の方がエド殿下の隣にふさわしいんだと思う。だから、いいの。私がオルグレン卿のところにいるということは、エド殿下には黙っていて」
「そんな簡単なことじゃないだろ? 殿下のために身を引くっていうのか? お前の気持ちはどうなる? どうなるんだっ。自分の方が好きだって、自分の方が相応しいって、言えよっ」
ジェロームの怒声が部屋中を響かせた。
ジェロームがここまで大声を出すことはない。一緒に暮らしていた頃だって、そんな姿をみたことなどなかった。
それほどに怒ってくれている。他ならねハノンのために。
それがこれほどまでに胸にしみるとは思わなかった。
「お兄様。ありがとう」
「なんでそんなに落ち着いていられんだっ」
「だって、お兄様が私の代わりに怒ってくれたから。私はそれだけで十分」
ハノンの方が相応しいとはどうしても思えない。それは、ハノン自身に自信がないからだ。
胸を張って、自分が相応しいなどと到底言えない。
「私はエド殿下に相応しくないもの」
「殿下がそう言ったのか?」
ハノンはふるふると首を横に振った。
「誰かがお前に直接そう言ったのか?」
ハノンの頭が左右に振れる。
「じゃあ、誰がそんなこと言った?」
「誰にも言われたことなんてない。誰でもない、この私がそう思うんだもの」
「お前は少し自分を卑下し過ぎている。その容姿のせいなんだろう? 城でお前の容姿を卑下する奴らがいたのか? そうでなければ、一体何をそんなに自分を卑下する必要がある」
「沢山あるでしょ? 私の容姿もそう。出自だってそう、教育は受けていなかったし、つい最近までまともに言葉もしゃべれなかった。出自、容姿、教養、それだけ揃ってれば私が相応しくないと言うには十分だと思うけど」
ハノンが淡々と自分の相応しくない部分を挙げ連ねるところをジェロームは苦しそうに聞いていた。
自分のことじゃないのに、どうしてそんなに苦しそうなんだろう。
「お兄様。私のことを心配してくれてありがとう。でも、私決めたの。エド殿下との将来は私にはないの。私はオルグレン卿の娘として、他の誰かと結婚するの。多分、もうその相手は決まっているのよ」
ハノンは恐らくバウティスタと結ばれることになる。バウティスタには教養が十分にある。確かに愚王ではあったが、小さいころより帝王学を学んで来た。彼は王には向いていなかったかもしれないが、今ならその才能を開花させることができるのではないかと考えている。