第78話
日々の仕事に忙殺されれば、厄介な不安に襲われることはないだろうなどと、考えていた自分を呪いたくなった。
マルヴィナは常にエドゥアルドの隣にいた。それを許しているのはエドゥアルドで、それを受け入れているのもまたエドゥアルドなのだ。
一日に何度も二人が並んで歩いている姿を見た。
マルヴィナの相手をするために、執務も優遇されているようだ。
楽しそうな二人を見れば見るだけ、心が痛む。信じようとする心を砕くように、容赦なく目に飛び込んでくる。まるで、ハノンの不安を煽るようにこれ見よがしに。
暫くアナと離れたことで、一人で仕事をすることには慣れた。だが、アナがいない淋しさには一向に慣れる気配はなかった。
「あれ?」
廊下を一人で(少し離れたところにカイルはいるが)歩いていると、見かけない姿を見つけて足を止めた。
「やあ、ハノン。元気? でもなさそうだね」
「何を言っているんですか。私は元気ですよ。バウティスタさんはどうして城に?」
ハノンが見かけたのは、イルゼの家にいるはずのバウティスタだった。暇そうにぶらりぶらりと廊下を歩いているところだった。
「イルゼが城に行くっていうから、私も連れてきて貰ったんだ。ハノンの顔が見たかったからね」
「私の?」
「そう、ハノンの。あれからしばらく会っていなかったから。きっと、イルゼたちに遠慮しているんだろうと思ったんだけど……それ以外にも何かあったんだね? それにその髪は何?」
確かにイルゼとオルグレン大公の邪魔をしてはいけないと、行くのを控えていた。だが、今はハノンの表情の変化に敏感なイルゼに見抜かれるのが怖くて行けないというのが大きい。今のハノンを見たら心配するのは目に見えている。
「これは……、何でもありません。それに私はとっても元気ですよ」
握ったこぶしを上げて、笑って見せたが、誤魔化されてはくれないようだ。
バウティスタはハノンの手首を掴むと、ズンズンと歩きだした。ハノンは咄嗟に反応できずにバウティスタにわけも分からず引っ張られた。
庭園に着くと、キョロキョロと辺りを見渡したあと、突然腰を下ろした。引っ張られてハノンもぺたんと腰を落とした。
「バウティスタさ……」
「泣けっ」
「え?」
「泣けていないんだろう? ここなら誰にも見られない。城からも離れているから多少声を上げても大丈夫だ。だから、思い切り泣け」
ポカンとバウティスタを見ていたハノンだが、張っていた緊張の糸が切れたのか堰を切ったように泣き出した。
バウティスタの言うとおり、ハノンは泣けずにいた。泣くことを我慢してばかりいたことで、今度は泣けなくなってしまったのだ。
夜、一人になった部屋で泣けていたならもう少し楽だったかもしれない。全てをため込んでしまったせいでどんどん自分自身を追い詰めてしまっていたのかもしれない。
バウティスタはハノンを引き寄せて胸に包み込んだ。その胸がエドゥアルドでないことに少し苦しくなったが、それをいつの間にか忘れてしまったように違和感がなくなっていった。
バウティスタの胸の中で居心地の良さを感じていた。安心して泣くことが出来た。
「ありがとうございます、バウティスタさん。少し気持ちが楽になりました」
バウティスタの胸から離れ、気恥ずかしさを感じながらそう言った。
涙はどうにか止まったが、目は真っ赤に染まっているだろうことは分かっていた。
「バウティスタさん。私が泣いたことはイルゼさんには秘密にして下さい」
いたずらに心配をさせたくはなかった。
「ハノンがそう言うならそうしよう」
バウティスタは一つ小さな息を吐いてそう言った。
「ただし条件が一つある。何か辛いことがあったら、私のところに来ること。私の胸を使えばいい」
「それじゃバウティスタさんに都合のいいことなんにもないじゃないですか」
「あるよ」
「え?」
「あるんだ。だから、ハノンはそうして」
バウティスタの言っていることは、ハノンにはいまいち理解できなかったが、その条件を飲んだ。
「それじゃ、そろそろイルゼが戻って来そうだから戻らないと。ハノンはどうする? もうしばらくここにいる?」
「もう少しここにいることにします。バウティスタさん、ありがとう」
ハノンのお礼を笑顔で受け取ると、バウティスタはその場を去った。
バウティスタは不思議な人だ。最初にあの人を見たときはアデルドマーノ王国の国王で、正直頭の悪い愚王だと思っていた。確かにあの頃はその通りだと思う。イルゼの家に住み着いてから、少しずつ変わっていった。あの時、色んな苦しみを自分の体で受けたことによって、他人への思いやりを学んだのだろうと思う。イルゼがバウティスタを変えたのだ。
ハノンは大きな溜息を一つ吐いた。
「カイル。私が泣いたこと、エド殿下には黙っておいてね」
どこかで隠れてこちらの様子を窺っているのだろうカイルに、ハノンは呼びかけた。どこからともなく返事が聞こえて安心する。
その日のエドゥアルドの食事は、自室でマルヴィナととることになっていた。
給仕はハノンとレーテが担当することになっている。ハノンがマルヴィナの給仕をレーテがエドゥアルドの給仕だ。
シンプルな淡いピンクのドレスを身にまとったマルヴィナをエスコートしながらエドゥアルドが部屋に入って来る。誰が見てもお似合いな二人にハノンの心は潰れそうになる。
こんなに苦しい想いをするなら、いっそ逃げ出してしまおうか。
一時の感情にハノンの心が揺れた。それがもしかしたら最善なのかもしれないとさえ思った。マルヴィナはエドゥアルドを慕っているように見える。マルヴィナの家柄は申し分なく、隣りに立った時のバランスもいい。エドゥアルドより2歳年下のマルヴィナは、最良の相手なのかもしれない。何より、マルヴィナといる時のエドゥアルドは楽しそうだった。
エドゥアルドが幸せになれるのなら、ハノンが傷付いてもいい。エドゥアルドの幸せは、周りの意見が真っ向から対立しているハノンよりも、誰からも歓迎されているマルヴィナと結婚することなんじゃないだろうか。
「ねぇ、エド。私、噂を耳にしたのよ。黒髪で黒目の少女が城で侍女をしているって。ここに滞在してからさりげなく探していたんだけれど、それらしき少女が見当たらないの。エドなら何か知っているでしょう?」
「マルヴィナ。その少女を探して君はどうするつもりだ?」
ハノンは、自分のことが話題に出されたことに動揺して、皿を落としそうになった。
「勿論、お友達になるつもりよ。とても美しい少女なんでしょ? 私に会わせてくれない?」
「駄目だ。その少女はもうこの城にはいない。郷に帰ったんだ」
エドゥアルドの言葉にハノンは文字通り固まった。
それがエドゥアルドの本心なんだろうか。ハノンにこの城から出て行って欲しいと、そう考えているんだろうか。それならば、マルヴィナとの会話の中でそれとなく言うんじゃなくて、直接、お前など出て行けと言って欲しかった。
それからのハノンは、意地で侍女の仕事をこなした。エドゥアルドとマルヴィナの会話を耳に入らないようにシャットダウンした。心がここになくても、仕事をそつなくこなすことが出来るほどに成長していたことを感謝した。