第77話
不安な気持ちはいつまでたっても消えなかった。
エドゥアルドが苦い表情を浮かべるものの、多くを語ることはない。
翌日、いつもどおりに朝を迎えたが、いつもどおりに一日が終わることはなかった。
アナと二人で洗濯物を干していた。
正門の方でなんだか騒がしさを感じて、ハノンはこっそりと窺った。誰かが城に入れろと、騒いでいるのだと思ったのだ。下手に顔を出すととばっちりを受けることがあるのだ。
だが、そこで繰り広げられているのは、出迎えの儀式のようなもの。ただ、ビビニアの時のような畏まった感じではなかった。
一人一際はしゃいでいる女性がいた。はしゃいでいるといっても非礼にならない程度を心得ているようだ。
ふと目に入った光景につきりと胸が痛んだ。
その女性がエドゥアルドの腕に親しげに絡めていた。エドゥアルドを見上げ、恐らく微笑んでいるのだろう。エドゥアルドが優しい笑顔を返していた。
膝に力が抜けて、立っているのも困難になった。座り込まずに済んだのは、アナが支えてくれていたからだ。
「アナ……。エド殿下はあの人を知っているのね?」
初対面であんなに親しげにするわけがないのだ。エドゥアルドがあれだけ心を許しているとなると、相当近しい人なのだろう。
「はい。幼なじみでいらっしゃいます」
「そう」
アナに手を貸して貰った礼を弱々しく延べ、洗濯物を再開する。
見なければ良かった。見なければこんな想いをすることはなかった。見なければ心が揺さ振られることはなかった。見なければ信じることが出来たかもしれない。
もしかしたら暫くエドゥアルドとは話すことすら出来ないだろう。
あの人がいる間、ハノンは侍女として働きはじめた頃に使っていた部屋で寝ることになっている。
「アナ。申しわけないがちょっと来てくれないか?」
ビバルがアナを呼び止めたのは、洗濯物を干し終え廊下を並んで歩いている時だった。
「ですが、私がハノンから離れるわけにはいきません」
「代わりにカイルをおいていくから問題ない」
アナは不服そうにしながらもビバルについていってしまった。
「カイルと二人なんて初めてだね?」
無口なカイルは頷くだけで、口を開きはしない。会話を盛り上げることは出来ないが、特に気詰まりというわけでもない。
「大丈夫」
カイルがぼそりと呟いた。聞き逃しそうなそんな短い言葉だったが、ハノンの耳にはしっかりと届いた。
「……うん」
たった一言がなんだか無性に嬉しかった。
その日、アナがハノンの元に戻ってくることはなかった。その理由をしることになるのは、その日の夜のことだった。
恋人としてハノンが傍にいることは出来ない。
あの人にはハノン(恋人)の存在を隠す必要があるんだそうだ。エドゥアルドもビバルも苦虫を噛んだような苦い表情をしていた。ハノンはその理由を敢えて聞かなかった。だが、今思えば聞いておけば良かった。曖昧さがハノンを不安にさせた。
いくら恋人というかたがきを隠していても、ハノンはエドゥアルド付きの侍女なのだ。傍にいれば話したくもなる。傍にいれば触れたくもなる。普段していることが、こんなに近くにいるのに叶えられないのが辛かった。
「あの方、マルヴィナ様ってエドゥアルド殿下の幼なじみなんですってね? 私、二人の姿をお見かけしたけど、とても仲が良くてお似合いだったわ。あっ、でも大丈夫よ、エドゥアルド殿下がお慕いしているのはハノンだもの」
侍女仲間のレーテが胸にぐさりとくるおまけ付きの言葉を投げ掛けた。レーテに悪気はまるでない。それが分かっているから文句は言わないが、今はその何気ない毒が非常に効く。
「ありがとう」
自分でもなぜ礼を言っているのかなぞだ。
ハノンが一日で侍女としてエドゥアルドに接するのは、朝晩の召しかえと、食事の給仕だ。
今夜はマルヴィナと王、王妃と食事を取るそうなので、ハノンに仕事はない。王の教育し尽くされた侍女たちが給仕をするからだ。
ハノンは晩餐前のエドゥアルドのお召しかえをしていた。
レーテとハノンとで行う。手が触れるほど近くにいるのに、声をかけることはしなかった。今話し掛けたら、ハノンは泣き出してしまいそうだったからだ。
いつもならこの時間、手を動かしながらもハノンとエドゥアルドの痴話喧嘩が繰り広げられ、レーテはそれを見て、クスクス笑っている。だが、今は衣擦れの音しか聞こえない。
レーテがちらりとハノンを見た。心配そうなその視線に目だけで答えた。
支度を終え、頭を下げて部屋を辞そうとしたとき、エドゥアルドに呼び止められた。
「邪魔者は先に出てるね」
レーテが気をきかしたのか目配せして出ていった。
「ハノン。こっちに来てくれ」
断る理由も見つからずにハノンはエドゥアルドの前まで来た。
泣き出してしまいそうな顔をさらしたくはなかったので、少し距離を置いた。
「ハノン、私の言うことを聞いてくれないか? 暫らくの間これをつけていて欲しい」
「は?」
エドゥアルドから手渡されたのは、ブロンドの鬘とメガネだった。
「私がマルヴィナと結婚することは絶対にない。有り得ないことだ。信じてくれ。マルヴィナには近付くな。お前の素性はなんとしても隠しておきたい。くれぐれも気を付けるんだぞ」
そう言ってハノンを抱き締めた。
ハノンはエドゥアルドの胸の中で複雑な想いを抱えていた。
ハノンの容姿がこんなだから、大切な幼馴染を紹介することが出来ないということだろうか。ハノンのような異端な女は……。
エドゥアルドは決してそんなことを言ったわけじゃない。けれど、マイナス思考の塊と化してしまったハノンにとってどんな言葉も元気づけるものにはならなかった。
「それから、暫くアナはマルヴィナ付きの侍女になって貰う。お前の護衛はカイルをつける」
ハノンの傍には必ずアナがいた。落ち込んだ時でもアナがいてくれたお陰で何度でも浮上することが出来た。
そのアナも今はいない。
酷く孤独を感じた。
気付けばエドゥアルドがハノンの顔を心配そうに覗き込んでいた。
「うん。分かった」
元気よくそういったつもりだったが、その途端にエドゥアルドの眉間に皺が寄った。
エドゥアルドがハノンの頬を撫でながら、切なそうにこう言った。
「そんな顔をするなよ。私は早くお前を妻にしたい。そのためにも今は辛抱どきなんだ。この件が済んだら、必ずお前を貰う。愛している、ハノン」
エドゥアルドの甘い言葉と与えられた優しいキスに、少しだけ力が貰えた気がした。愛しい人の言葉は何よりも強い心の支えになる。
「エド殿下。傍にいれなくて寂しいよ。すごくすごく不安になる。だから、こうやって時折でいいから愛を頂戴」
自分で言っていて火を噴くほどに恥かしくなった。
「容易い御用だ。なんなら今ここでたっぷりと愛を与えてもいいんだぞ」
「何変なこと考えてんの、この変態スケベっ」
エドゥアルドがケラケラと笑いながらハノンをきつく抱き締めた。
「ああ、なんて可愛い生き物なんだ。食べてしまいたい」
「言ってることが何だか卑猥なんだよっ。放せ、エロバカっ」
「卑猥だと思う方が卑猥なんじゃないか? 私はそんなに卑猥なことを言ったつもりはないぞ」
ハノンは無言でエドゥアルドを睨みつけた。
きっとこんな風にいつもどおりの悪態を吐くことで自分を保とうとしている。