第75話
その時、オルグレン大公の胸の中に包まれたイルゼから苦しそうなうめき声が響いた。
ハノンとオルグレン大公、バウティスタが一瞬体を強張らせた。
まさか……。
恐らく三人の考えていることは同じだったろう。
「んんっ」
イルゼが突然目をぱちりと開き、がばりと勢いよく起き上がった。その際、イルゼを抱き抱えていたオルグレン大公のおでこに強打した。
「痛っ」
短く叫んだのは、イルゼではなくオルグレン大公の方で、イルゼはというとここはどこかとキョロキョロと見回していた。
「あら、ハノン」
この状況下で、苦しんでいるオルグレン大公を尻目にハノンに話し掛けたイルゼを見て、なんだか申し訳ない気分になった。
「イルゼさん。呪いは……」
「解けたみたいね」
そう言って微笑んだあと、オルグレン大公を見た。
「アデルバート。あなたは私がかけた呪いを解いてくれたのね。ありがとう」
オルグレン大公はなんとかおでこの痛みから復活したようだった。
「呪い?」
「ええ、呪いよ。私は死ぬ予定だったのよ」
オルグレン大公はおでこを強打したことと、死んだと思っていたイルゼが息を吹き返したことにより頭が上手く働かないのか、戸惑った表情を浮かべていた。
「まあ、今、死にかけたけど、もう大丈夫」
「私には何が何だか」
「ねぇ、アデルバート。起こしてくれない?」
戸惑い顔のオルグレン大公に、イルゼが控え目に甘えてみせた。
イルゼが誰かに甘えているのを見るのは初めてだ。ハノンが見ていたイルゼの顔は親の顔で、今の顔は恋人への顔なのだ。
そんな表情が可愛くて、見ているこちらが恥ずかしくなるほどだった。
「ハノンも座って。バウティスタ。心配かけてごめんなさい。もう大丈夫よ。申し訳ないけれど、三人で大事な話をしたいの。席を外して貰える?」
バウティスタは素直にそれに応じると、自室へと向かった。
イルゼは死にかけたのがまるで嘘だったかのようにぴんぴんしている。
さっさとキッチンに向かうと茶器を用意し、三人分の紅茶をいれはじめた。
「さあ、どうぞ」
「イルゼさん。何だかすっきりした顔をしてるね?」
「もう覚悟は決めていたから。死ぬなら死ぬで潔く成仏する。生き残れたなら気合いを入れて残りの人生を生きていこうと」
紅茶を一口含み、その味に満足というように頷いたあと、力強くそう言った。
「待ってくれ。私には全く状況が掴めない。一から説明してくれないか」
イルゼは今日死にそうになった経緯をオルグレン大公に説明した。
オルグレン大公はイルゼの話を静かに聞いていたが、その表情は焦ったり、苦しんだり、悲しんだりと忙しいようだった。
「私の呪いを解くためには、二つのことを成し遂げなければならなかった。まず、アデルバートの記憶が戻ること。あなたの記憶が戻るには、ハノンにお父様と呼ばれる必要があった。二つ目はあなたが全てのしがらみを乗り越えて私を愛してくれること。これが一番大変だったんじゃないかしら。あの子が亡くなったあとですものね」
どうやらどちらか片方だけでは呪いは解けなかったらしい。ややこしい呪いをかけたものだと感心するやら、呆れるやら。
それにしてもよく呪いが解けたものだ。ギリギリではあったが。
「君はなんて無理なことをするんだ……」
「ごめんなさい。でも、私は生きていたわ」
謝辞を述べているが、あまり悪いとも思っていないように見える。
「心臓に悪い。私は君を失ってしまったと思って死ぬ思いだったんだ。もうこんなことは止めてほしい」
「もうしないわ。する必要ないもの。そうでしょ?」
少し拗ねたようなイルゼが可愛かった。
二人のかけ合いを見ていると嬉しくなってくる。恐らく目の前の二人はハノンがここにいることすら忘れているのかもしれない。
二人きりにするべく、ハノンはこっそりと席を立ち外に出た。
もう、あの二人は大丈夫だろう。やっと共に生きていけるのだ。
空を見上げると、雲一つない綺麗な青で、ハノンはさらに嬉しくなった。
「最近、ゆっくり空も見てなかったな……」
「私もだ」
誰もいないと思っていたハノンは、文字通り飛び上がった。そして、その声がここにいるはずのないエドゥアルドのものだったので、ハノンの幻聴だと初めは思った。けれど、振り返った先には間違いなくエドゥアルドの姿があり、こちらへと近付いてきていた。
「どうして?」
エドゥアルドは城で執務をこなしている時間だ。それにもしエドゥアルドがここに来るには、相当な時間を費やす。朝、朝食を共にしたエドゥアルドがここにたどり着けるわけがないのだ。
「幻覚?」
幻か本物か分からないエドゥアルドは、混乱しているハノンを見てケタケタと笑っている。
ハノンの前でぴたりと足を止めたエドゥアルドに手を伸ばした。
「本物……だ」
エドゥアルドの頬に手を添え、その温かみを感じながらそう言った。
「本物だ、ハノン。お前が心配で飛んできた。もしかしてお前が泣いてるんじゃないかと思ってな。泣いていないようだ。魔女殿は死を回避出来たんだな?」
エドゥアルドは頬に添えたハノンの手を包み込むように手を重ねた。
「うん。イルゼさん、助かったよ。色々迷惑かけてごめんね。ありがとう」
「礼を言われることは何もしていない。ただ我慢しただけだ。お前に会えないことをな。もう、これで我慢する必要はなくなったな」
「そんなに我慢することあった?」
「魔女殿のところに行って帰っては来ない。帰って来たと思ったら、頭の中は違うことばかりだ。いつもは休憩は共にとっていたのに姿はあらわさない」
拗ねたようにふいと視線をそらした。
「お前にとっては大変なことで、私も心配はしていた。だが、お前が私以外のことを考えているのを見るのは不快だ」
ヤキモチなのだろうか。
エドゥアルドをほったらかしにしていたから拗ねているんだろうか。
「エド殿下。ありがとう。私のために何も言わずに我慢してくれたんでしょ? これからはエド殿下一色だよ」
「なら、いい」
なんだか拗ねたエドゥアルドが愛しくて、背伸びをして唇を奪った。
「エド殿下、可愛い。大好き」
「おっ、男は可愛いなどと言われても嬉しくなどない」
放った言葉とは裏腹にエドゥアルドは満面の笑顔だった。
ハノンはそんなエドゥアルドが可笑しくて、大きな口を開けて笑った。今日まで張り詰めていたものを一気に解放したように思い切り。
「やっと笑ったな。その顔が見たかった」
バカみたいに笑うハノンをエドゥアルドは目を細めて見ていた。
そうしてハノンの笑いが治まるのを待ってキスをした。初めはおでこに軽く触れる程度に。そのあと頬にわざとリップ音を強調して。笑いすぎで滲んだ涙を舐めとり、鼻、顎を経て唇を塞いだ。
長いようで短いエドゥアルドとの二人の時間をハノンは大事に思った。
ここには、ビバルもアナもカイルもいない。普段、彼らがいることに感謝しているが、二人きりになりたいと思うこともある。いつも守られているということは、いつも見られているということ。それを時に煩わしいと思うことを、どうか許して欲しい。
徐々に深まっていくエドゥアルドのキスに翻弄されながら、そんなことを考えていたと知ったら、みんなは怒るだろうか。