第74話
何を考えているのかぼんやりとしているオルグレン大公は、言葉も出せずにいるようだった。
「私、毎日待ってますから。11時に庭園で。会ってくれる気になったら来て下さい」
「……私は行けないよ」
ハノンを見ずにそう言った。
望みは薄いように思う。その表情から、オルグレン大公が折れてくれるとは思えない。こんな状態でこれ以上何を言っても無駄だろう。
「よく考えて下さい。あ、それから私が待つのは五日間だけですので」
「それはどういう?」
「すみません。お時間を割いてしまって」
一方的に会話を中断した。さすがにあと五日でイルゼが死ぬかもしれないなどとは、言えなかった。
「君の意に添えなくてすまない。また」
オルグレン大公の歩き去る背中を見て、ハノンは思わず呟いていた。
「お父様。イルゼさんを助けて」
「え?」
突然振り向いたオルグレン大公を見て、自分の失言に気付いた。
「いえ、何でもありません」
慌てて弁解したが、オルグレン大公はなぜか堅い顔をして固まってしまった。
しばらくあとに我に返ったオルグレン大公が何か言いたそうにしていたが、ハノンは瞳を見つめてそれを拒んだ。
「ごきげんよう、オルグレン卿」
質問は受け付けない。その意味の含んだ笑顔を浮かべて。
「じゃあ、失礼するよ」
オルグレン大公は、ここに来たときよりももっと青い顔をして出ていった。
一体どうしたというのだろうか。座って話している時は、そこまで青い顔はしていなかったように思うのだが。首を傾げるが、いくら考えたところで分かる訳もなかった。
「ハノン」
「アナ。なんだかオルグレン卿の様子がおかしかったよね?」
「そうですね。奥様の死に加え、魔女様の死の危機をほのめかされて心を痛めておられるのじゃないでしょうか」
「そっか、そうだよね。言わない方が良かったのかな?」
「私にも分かりません。けれど、危機感を持って頂かないと会ってはくれないかもしれません」
ハノンがやったことが正しいことなのか正しくないことなのかは、時が過ぎてみなければ分からない。
ハノンは待った。
毎日同じ場所で同じ時間に待ち続けた。
そして、五日目。
今日がイルゼさんの呪いのタイムリミットだった。
来るか来ないかは五分五分。イヤ、来る確立はもっと低いに違いなかった。
今日は待つのは一時間だけにしようと決めていた。最初の二日間は昼も食べずに夕刻まで待ち続け、そのあとの二日間はアナが用意してくれた弁当を庭園で食べ、夕刻まで待ち続けた。
午前中は侍女としての勤め、午後はひたすらオルグレン大公を待ち続ける日々のため、イルゼのところには行けなかった。
ずっとついていたかった。もしかしたら、イルゼと過ごせるのはあと僅かなのだと思うと、ただただ傍にいたかった。オルグレン大公に、早く来い、と罵りたくもなった。
信じたいと思った。
オルグレン大公とイルゼの絆を。イルゼが自らに呪いという名の賭けをしかけたというなら、その賭けは絶対にオルグレン大公にしか解けないと思っていた。そして、オルグレン大公が過去のしがらみを乗り越えて会いに来てくれると。
だが、今のところオルグレン大公が姿を現す気配はなかった。
庭園に入れば、すぐに見える場所に腰を下ろした。ハノンの隣りにはアナが座っている。
「来てくれるといいんだけど……」
来たところでイルゼのことを助けられるかは、絶対ではない。けれど、来なければ何も始まらないのだ。
もうすでに11時を回り、間もなく12時となろうとしていた。
もはや、もう駄目なのかもしれない。悲しい諦めの気持ちが現れ始めた頃、その人は姿を現した。
「オルグレン卿っ」
人目も憚らずに抱き付いてしまいたいところだが、ここは城からでもよく見える場所である為、そんなものを目撃されたら変な噂がたつかも分からない。
「ハノンっ。待たせて申し訳ない。まだ間に合うのならば、私をイルゼに会わせてくれないだろうか」
「待ってました。きっと来てくれると信じていました。こうしてはいられません。すぐに行きましょう」
オルグレン卿の手を取る。
「私の手を決して放さないで下さい。放すと何処に飛ばされるか分かりませんので。いいですね?」
これから何が始まろうとしているのか見当もつかないオルグレン大公は、ハノンの真剣な物言いに緊張した面持ちで頷いた。
「アナ。私はイルゼさんのところに行ってきます。エド殿下に伝えておいて。心配はいらないからって」
アナが了承するのを見届けた後、ハノンはオルグレン大公をひきつれて飛んだ。
「ここは一体……」
「イルゼさんの家の前です」
普段なら家の中に飛ぶのだが、本日はオルグレン大公を連れているので行儀よく玄関前に飛んだのだ。
着いた途端に、家の中で誰かが動揺し叫ぶ声が聞こえた。
礼儀も何も無視してハノンは家の中に突入した。その後をオルグレン大公もついてくる。
ドアを開き、目にしたのは、バウティスタがイルゼを抱き抱えて叫んでいるところだった。
「バウティスタさんっ。イルゼさんはどうしたんですかっ」
ハノンの声に叫んでいたバウティスタが振り返った。バウティスタの顔は涙でぐしゃぐしゃに濡れていた。ハノンを見て、少し安心したように、まるで子供のように情けない顔を浮かべている。
「バウティスタさん。気を抜くのは早いですよっ。イルゼさんはどうしたんですかっ。しっかりして下さい」
「イルゼが……、イルゼが、突然、倒れて、息を、息を、して、して、してないんだ」
ああ、なんということだ。ハノンはこの場で叫びたくなった。自分の非力さに泣き叫びたくなった。
今日までだと聞いた時、今日が終わるその時までだと思い込んでしまった。イルゼの呪いは昼の12時までがタイムリミットだったのだ。
「オルグレン卿。イルゼさんを、抱きしめてあげて下さい。あなたに会いたかったろうと思います」
涙を堪えることは出来なかった。だが、泣き叫ぶことはしなかった。
戸惑いがちに一歩を踏み出したオルグレン大公は、その後の動作は速かった。イルゼに飛び付いた、と形容すれば一番分かり易いのではないか。
「イルゼっ、イルゼっ。お願いだ。目を開けてくれ。目を覚ましてくれ。その美しい瞳で私をもう一度写してくれっ」
オルグレン大公の悲痛な叫びに、ハノンも堪え切れずに嗚咽を漏らした。
イルゼの体を大事そうに抱き締め、愛おしそうに覗き込むオルグレン大公の体は悲痛に揺れていた。
「イルゼ、聞いてくれ。私の記憶が消えていた。恐らく罪を犯した私を戒める為にイルゼが記憶を封印したんだろう? 私たちの娘が、私たちの罪を知ってもなお助けようとしてくれている。私は妻に酷い仕打ちを強いてしまった。こんな私が君に会ってはいけないと思った。けれど、君を亡くして罪を償うよりも、共に罰を受けようと思った。私を残していかないでくれ。イルゼ、私は君を愛している」
オルグレン大公の言葉にハノンは目を瞠った。
まさか、オルグレン大公の記憶が戻っているとは思ってもみなかったのだ。
真っ直ぐなオルグレン大公の告白は、見ているこちらが恥ずかしくなるほどだった。あまりのことにハノンも思わず涙が止まってしまっていた。
その時……。