第73話
「お願いします」
そう頭を下げるが、目の前の男は呆然と首を横に振るばかりだった。
城に戻ったあの日、ハノンはエドゥアルドに軟禁され、翌日の朝まで部屋を出ることは出来なかった。イヤ、訂正しよう。厳密に言えば、翌朝には解放をされたが、体が全く動かせず、ハノンが部屋を出ることが可能になったのは、翌日の夕刻あたりのことだ。と言ってもその時間でも壁をつたわないと歩けない状態ではあったが。
そのことをエドゥアルドになじったが、それさえも嬉しそうに受け入れていた。
その日は結局動くことは叶わなかった。そうして、城に戻って二日目に漸く動きだしたのだ。
ハノンは軟禁中にイルゼのことを包み隠さず話して聞かせた。その上で、オルグレン大公に会いに行くことを告げていた。
運良く定例会議が開かれるということで、エドゥアルド伝いでオルグレン大公には、会議後応接間に来てもらうことになった。
応接間には、ハノンがソファに腰掛けている。その後ろにアナが控えていた。
ドアがノックされ、アナがドアを開け、エドゥアルドの命によりドア前で警備していた近衛兵と何某かを呟き合う。
恐らくオルグレン大公が来たであろうと、ハノンは背筋を伸ばした。
「ハノン。オルグレン卿がおいでになりました」
ハノンが頷くと、アナはオルグレン大公を応接間に通した。
オルグレン大公は少し痩せたかもしれない。
立ち上がり出迎えたハノンは、そう思って心が痛んだ。
「オルグレン卿。お忙しいところお呼び立てして申し訳ありません」
「いや、会議は終わったし、私はハノンの友達なのだから大歓迎だよ」
オルグレン夫人の死はオルグレン大公に影を落としている。いつもの穏やかな笑みに力がないように思える。
「ハノン。この間は来てくれてありがとう。いてくれてどれだけ慰められたことか」
「私で役に立てたなら嬉しいです」
ハノンが役に立ったのかは甚だ疑問であったが、笑顔でそう言った。
「私たちには子供がいないからね。このままではオルグレンの名は廃れてしまうかな」
ハノンの記憶がないのだから、仕方のないことであるが、真っ向から自分の存在を否定されるのは酷く痛みを伴うものだ。
「お子さんが、いらっしゃらないんですね?」
「残念ながらね。だからかな、君が娘のように思えるのは」
たまらなくなって俯くハノンに、オルグレン大公は、気分を悪くしたならごめん、と慌てて謝罪した。
気分を悪くするどころか、嬉しかったというのに。そんな狼狽えているオルグレン大公が可笑しくて肩を震わせた。
「気分なんて悪くなりませんよ。とても嬉しいです」
「それなら、良かった。変なことを言ってしまって面目ない」
頬をほんのり染めたオルグレン大公はなんだか可愛らしかった。
ドアがノックされ、侍女仲間が茶器と茶菓子を運んできてくれた。紅茶を入れようとする侍女仲間に、自分が用意すると申し出た。侍女仲間はオルグレン大公に礼をして部屋を退出する。
「君が入れてくれるのかな?」
「はい。これでも紅茶を入れるのは得意なんですよ。といっても、私にしこんでくれた人には全然及びませんけどね」
イルゼさんにはきっと一生適わないだろう。
もし、イルゼが賭けに負けたら、もう二度とイルゼの入れた紅茶は飲めなくなる。
そう考えたら悲しくなって涙が出そうになった。
「ハノン。どうかしましたか?」
「いいえ。何でもありません」
こんな雑念だらけで美味しい紅茶は入れられない。ハノンは目の前のそれに集中した。オルグレン大公に美味しい紅茶を飲ませてあげたいのだ。
「どうぞ」
オルグレン大公の前に紅茶を差し出す。
「ありがとう」
そう言って、一口飲んだが、そのまま固まってしまった。
「オルグレン卿?」
まさか不手際があったのかと自らのカップを手に取り一口飲んだ。イルゼの紅茶には及ばないが、美味しく入れられている。では、一体どうしたというのか。
「とても懐かしい味だ。昔、私が愛した人が入れた紅茶を思い出す」
それは間違いなくイルゼのことなんだろう。イルゼに容れ方を教わったので、味が幾分似ているのかもしれない。
「オルグレン卿。イルゼさんに会って下さい」
「え?」
ハノンが二人の過去を知っていたとは思わなかったのだろう、ぽかんとした顔をしている。
「イルゼさんに会って下さい」
もう一度、そう言った。
「ハノンはイルゼを知っているの?」
「はい。イルゼさんは私にとって母のような存在です」
本当の母なんだけどね。
「そう。どうしてハノンは私をイルゼに会わせたいのかな?」
なんと説明すればいいだろうか。
呪いの話をしてもいいのか、イルゼが何かを賭けていることを話していいのか、死が迫っていることを話していいのか分からなかった。
「きっと、言わないけどイルゼさんはオルグレン卿に会いたいと思っていると思うんです。話したいと思っていると思うです。私はイルゼさんの願いを叶えてあげたい」
「そうかな? イルゼが私に会いたがっているなんて私は思わないな。ハノンは私とイルゼの過去を知っているの?」
少し淋しそうに笑ったオルグレン大公は、なんだかはかなげだった。はかなげ、なんて言葉をある程度年齢を重ねた男性に言うのもなんだが、その言葉以外に当て嵌まる言葉が思い当たらなかった。
「はい。知っています」
「なら、話が早い。私はイルゼと会ったらいけないんだ。私は家を捨てられなかった。私は彼女を裏切ったんだ。こんな私が会う資格などないんだよ」
資格って何だろ。何故人に会うのに資格など必要なんだろうか。
イルゼもオルグレン大公も、過去をいつまでも引き摺って、いつまでも幸せをつかもうとしない。誰にだって生きていれば誰かを傷つけなきゃならない時だってある。それを憂いて、後悔して、それは十分理解できる。けれど、人を傷つけたから自分は幸せになっちゃいけないなんて誰が決めたんだ。
二人は間違ってる。二人を見ているとイライラする。
「もし、ここでイルゼさんに会わなければ、あなたは二度と彼女に会えないかもしれない。オルグレン夫人のように……」
「イルゼは何か悪い病気なのかっ」
オルグレン大公の顔色が変わり、焦ったように大声を上げた。
「病気ではありません。でも、ある意味病気なのかもしれませんね。それは、オルグレン卿も同じです。二人とも過去の過ちにとらわれ過ぎている。過去ばっかり見て、幸せになろうとしない。二人ともきっと未来の自分を思い浮かべることが出来ないんじゃないですか?」
オルグレン大公の目が大きく見開かれて、唖然とした顔をしている。
ハノンの言葉に響く何かがあったのか、それともこんな小娘に説教されたことに唖然としているのか定かではない。
オルグレン大公には、ハノンなど生意気な小娘に映っているだろう。それでも、言いたいことは言うべきだと思った。
「お願いします」
そう頭を下げるが、目の前の男は呆然と首を横に振るばかりだった。
何を恐れているのだろう。
目の前の男の焦点が合っていなかった。何処を彷徨い、何を考えているのだろうか。ぐるぐるぐるぐる頭の中だけで答えを出そうとする男に、ハノンは手を貸してあげたくなった。だが、恐らくここは自分で考え、自分で感じて行動するしかないのだと感じていた。