第71話
結果がどう転ぼうと、努力が実を結ばなくても、最後まで諦めたくない。
ハノンには母親が三人いる。一人目は血の繋がりのあるイルゼ。二人目はハノンを産んでくれたベアトリス。三人目はハノンに居場所と愛をくれたチチェスター夫人。
ハノンを産んだベアトリスはもうこの世にいない。結局まともに話をすることも出来ずに、別れが来てしまった。
そして、血の繋がりのあるイルゼは、今、命の危機にある。
生きることを諦めてしまったイルゼの心の壁を崩したい。そのためにハノンは動いている。
「私、イルゼさんともっと一緒にいたいよ。イルゼさんはそう思ってくれないの?」
「ごめんね、ハノン。これは私が受けなきゃならない罰なのよ」
何度同じ質問をし、何度同じ言葉を聞いただろう。
しつこいと思われても、うるさいと思われてもハノンは引き下がるつもりはない。
『生きたい』とイルゼが言ってくれるまで。
心の中にその言葉がひそんでいるはずなのだ。その言葉を鎖でがんじがらめに縛り上げ、出せないようにしてしまっている。
「諦めないよ、私は。だって、イルゼさんは私のお母様だもん。絶対諦めないからねっ」
作戦も何もない。
真っ直ぐに自分の気持ちをぶつけるだけ。
ずっとイルゼの傍から離れないハノンを、この家の新しい居住者であるバウティスタは不思議そうに眺めていた。
アナは心配そうにこちらを眺めているが、決して口を出さずに傍観している。
「ハノン、ありがとう。その言葉だけで嬉しいわ」
予想通りイルゼは一筋縄じゃいかない。
ハノンの言葉なんて、吹き抜ける風のように思っているのかもしれない。触れた瞬間だけ感じるそんな風のように。胸にさえ留めておかれない。
悔しくて、悲しくて、苛立たしくて、けれど、それはハノンの想定内の感情だった。
ハノンのここ数日は、イルゼのためにだけ捧げた。そんなことは望んでいないかもしれなくても、止めるつもりはなかった。
「ハノン。そろそろ城に帰った方がいいんじゃない? エドゥアルド殿下が待っているてしょ」
「エド殿下とは毎日鏡を通して話しているから大丈夫」
「そう?」
イルゼはハノンに帰れとは言わない。エドゥアルドを引き合いにはだすが、帰城を強制することはない。
そうしないのは、少なからずハノンと共にいたいと願ってくれているからだと自惚れてもいいだろうか。
イルゼの家に滞在して四日目の午後、呪いのタイムリミットまであと一週間に迫っていた。
ハノンはイルゼと共に畑で雑草むしりに勤しんでいた。
今日はアナには、イルゼと二人だけにして欲しいとお願いしていた。ぬかりないアナのこと、どこかからハノンの様子をうかがっているのだろうが、その姿は見つからない。
「どうして本音を言ってくれないの?」
ハノンは草をむしりながら、イルゼを見ることなく呟くように聞いた。
イルゼの頑固さは想像以上のものであった。このままでは何も出来ずに終わってしまう。焦るつもりはないが、急いてしまうのはどうしようもない。
「本音を言ってしまえば、あなたは私を救おうとするじゃない?」
イルゼも草をむしりながら答えた。
それは今までの返答とは違った。これまでのイルゼならば、罰を受けるのが自分の罰なのだと言うところだ。
「だって、イルゼさんの気持ちが分かっているのに、見て見ぬ振りなんて出来ないよ」
「見て見ぬ振りしてくれたらいいのに……」
「そんなこと出来る分けないっ。それはイルゼさんが一番分かってることだよね? 大切な人を守りたいと思うのも、大切な人を助けたいと思うのも、大切な人に幸せになって欲しいと思うのも同じでしょ? どうして死ぬことが罰になるの? それで満足するのはイルゼさん自身なんじゃないかっ。逃げてるんだよ、イルゼさんは。幸せになることを恐れてる。いつまでオルグレン夫人のせいにするの?」
草をむしる手を止め、イルゼを見ながら叫んだ。
とうとう抑えていた気持ちが溢れてしまった。感情的にならずに話し合いで解決したかったのに。
「そうよ。ハノンの言うとおり、怖いのよ。自分が幸せになってはいけないんだって思う気持ちがある。それと同時に幸せになることへの恐怖があるの。こんなにも愛した人は他にはいなかった。その人は傍にいることが叶わなかった。もう、失うのは怖い。だから、逃げるのよ」
イルゼがした非人道的な行為に対する罰を受け入れよう、という気持ち。
二度と傍に行くことが叶わないなら、この生き地獄から逃げよう、という気持ち。
ハノンの力になりたい、という気持ち。
イルゼが感じている全てが本心なのだろう。その中で優先すべき気持ちがイルゼ自身定まっていないようだ。
どの気持ちを優先させても後悔する。
「誰だって怖いんだと思う。イルゼさんだけじゃないよ」
「ええ、そうね。……ハノン、私ね。本当はね、呪いという名の賭けをしたの。あなたをベアトリスのお腹に移動させたあと、私は死を選ぼうとしたのよ。けれど、出来なかった。会えなくても同じ世界にいたいと思った。私が自分に課した罰はあなたとアデルバートに会わないことだった。私は怖くてあなたに会いに行けなかったんじゃない。行かなかったのよ。けれど、私は自分の定めた罰に背いた。だから、この呪いを罰にしようとした。賭けにはどうせ勝てないから」
最後の言葉はあまりにも小さく聞き逃してしまいそうなほどのものだった。
「でもオルグレン卿とは王城で会ってたんじゃ」
「そうね。王城で偶然に見かけることはあったわ。けれど、私と彼ではあまり接点がないの。自分から接点を結ばなければ殆ど会うことはない」
イルゼと話すようになってから愛情をたっぷりと注がれていたと認識していた。それなのになぜ、幼少期に会いに来てくれなかったのかと疑問に思っていた。
ハノンと会わないことがイルゼの罰だったからだ。
やっと腑に落ちた。
「罰はもう受けたんじゃないか。十年も私にもオルグレン卿にも会えなかったんだから、罰はもう十分だよね。じゃあ、いいじゃん。生きてても。会ったっていいじゃん」
「ハノン。だから、私は賭けをしているの。勝ち目のない賭け」
「その賭けって一体何なの?」
呪いという名の賭け。
それは一体何なんだ。
「言えないわ」
いっそ清々しい笑顔なイルゼが憎らしくなってくる。
「じゃあ、一つだけ聞かせてよ。イルゼさんは生きたいの? 生きたくないの? 罰とか罪とか資格とかそんなの全部とっぱらって、イルゼさんの本心だけを教えて」
イルゼの瞳の奥を見つめた。決して本心を逃さぬように。
イルゼもハノンの瞳の最奥を見つめていた。
腹の探り合いはもういい。真実だけを聞きたい。
「生きたいわ。あなたの傍であなたを守っていきたい。あの人の傍で生きられるなら、あの人の傍で生きていきたい。罰が当たっても構わない。傍にいたい……」
漸く聞けたイルゼの本音に、ハノンは嬉しくなった。
「ああ、良かった。良かった……、良かった」
まだ、イルゼの言うところの賭けに勝たなければ本当の意味で終わったわけではない。イルゼの命の危機は今もなお迫っているのだ。それでも、一つの困難を乗り越えた喜びは隠しきれなかった。
「勝とうよ、賭けに。絶対勝とうっ」
ハノンの声に力がこもった。