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第68話

 話し終えたイルゼは、涙を堪えきれなくなったのか顔を両手で押さえて、部屋を飛び出していった。

 イルゼはハノンの前で涙を見せようとはしない。弱いところを見せようとはしない。それがハノンには少し淋しい。

 そんな風に感じながら何かに引き寄せられたように顔を上げた。そこには机があり、机の上のノートが何故か光っているように見えた。

 恐らく気のせいではなかったはずだ。

 ハノンはその光に惹きつけられるように立ち上がり、机の前に立った。

 何の変哲もない普通のノートがそこにはあった。開いているページに文字はなく、真っ白だ。

 イルゼに無断で見るのはいけないことだと分かっていても、好奇心を止めることは出来そうになかった。

 ぺらりと捲ると白紙が、さらにもう一ページ、さらに、さらにといくら捲っても文字など一つも書かれていない。

「魔法がかけられてるんだ」

 イルゼが無防備に広げた状態で置いておくわけがない。

 ノートの上に手をかざし、頭の中で文字が浮かび上がる様を想像する。すると、白紙だったノートに文字が浮かび上がってくる。

 ハノンは初めに開かれていたページに戻る。そこにも先ほどはなかった文字が書かれていた。

 だがそれは書き途中であるらしかった。


『ベアトリスがこの世を去った。私の命もあと僅か。ハノンに』


 書かれていたのはたったこれだけだった。

 ハノンはその文の意味が分からず、ノートを睨み付けていた。

 前のページを捲ってみたが、どうやらこれはイルゼの日記のようだった。

『私の命もあと僅か』

 その部分に釘づけになった。

 一体どういうことなのだ。イルゼに体の異変があるようには見えない。見るからに元気そうなのになぜ?

 かたりという音に振り向けば、イルゼが立っていた。

「イルゼさん。これ……」

「見てしまったの? いけない子ね」

 イルゼの目元が赤く腫れ上がっていた。ハノンがこのノートに気を取られている間にイルゼは思う存分泣いてきたのだ。

「ごめんなさい。……でもっ」

「私も悪いのよ。きちんとかたしておかなかったんだから」

 そんなのはもうこの際どうでもいいんだ。叱りたいのならあとでたっぷりと叱られる。

 ハノンが聞きたいのはそんなものじゃない。

「違うよ。そんなんが聞きたいんじゃないんだよ。これ……どういう意味?」

「そのままの意味よ」

 なぜこんなにも落ち着いて、穏やかなんだ。自分の命の話をしているのに、まるで世間話をしているように普段とまるで変わらない。

「病気……なの?」

 聞きたくて聞きたくて仕方がない。けれど、それはとても苦しい行為だった。聞きたい、でも聞くのは怖い。イルゼが死ぬなんてイヤだ。

「いいえ、違うわ」

「じゃあ、一体どうして」

 オルグレン夫人の死を経験した後だったので、あまりにも死が身近に感じられた。

 この恐怖はそれがあったからなのか。自らの体が震えていることに気付いていた。

「呪いよ」

「呪い? 誰がっ、誰に呪いをかけられたの?」

「私よ」

「へ?」

 間抜けに口を開けるハノンをイルゼはクスリと笑った。イルゼにはあまりに緊張感がない。

「私は私に呪いをかけたの」

「……もしかしてそれってオルグレン夫人と何か関係しているんじゃ?」

「そうよ。ハノンをベアトリスのお腹に移動させたあの時、同時に自分自身にも呪いをかけたの。……それはね、ベアトリスが死んだ二週間後に私も死ぬというもの」

 一体どうしてそんな呪いをかけたんだ。そう責めたい気持ちはあった。けれど、分かっていたんだ。どうしてそんな呪いを自分自身にかけたのか。

 イルゼはオルグレン夫人が容姿の異なる子供が産まれても受け入れてくれると信じていた、と言っていた。だが、それと同じくらいそれがどれだけ受け入れがたいもので、許されざるものであるか分かっていたんだ。だから、イルゼは自分自身に呪いをかけた。それはイルゼが自分自身にかせた罰なのだ。

「分かってくれたみたいね?」

 分かりたくなんてない。でも、分かってしまった。

 血のつながった親子だからだろうか。痛いほどに分かってしまう。

「その呪いを解く気はないんでしょ?」

 呪いを解くことが出来るのは、呪いをかけた本人。あるいは呪いの条件をクリアにすること。

 イルゼはどんな呪いをかけたんだ。どうすれば呪いを解くことが出来る。

「ないわ。ずっとハノンを守っていきたかったけれど、ごめんね」

 イルゼはもう死を受け入れてしまっている。呪いを解こうとも呪いを解いて欲しいとも思っていない。

 悲しい。

 生きて欲しい。ハノンを守って欲しい。ハノンを守ると言ってくれたではないか。ハノンと一緒だと言ってくれたではないか。

 呪いに負けた。オルグレン夫人への罪の意識にハノンは負けた。

 そう、思った。

 ハノンがどんな罪に背いてでも一緒にいたい存在だと思ってくれていないという証拠なんだと思った。イルゼはハノンより……。

「今日はもう……帰る」

「ハノンっ」

 イルゼに呼びとめられてもハノンは止まらなかった。その場から城に飛んだ。

 一刻でも早くイルゼの前から離れなければ、ハノンは泣きだしてしまうと思ったから。今、涙は見せたくない。


 城の廊下についたハノンは、走り出した。

 すれ違うたびに驚いたように振り返るが、ハノンは誰の視線も気にならなかった。

 涙が頬を伝って落ちていく、走るスピードに落ちた雫が飛び散って行く。乱暴に涙を拭うが、あとからあとから新しい雫が浮かび上がる。

 乱暴にそのドアを開くと、驚いたように誰もが顔を上げる。

 ハノンはその勢いのまま一番奥の机に座っている愛しい人に飛び込んで、大声で泣き出した。

「ハノン。どうした?」

 驚いたように、焦ったように尋ねるエドゥアルドの声にさらに泣き声が大きくなる。

「……ハノン」

 エドゥアルドの執務室にハノンの泣き声がこだましていた。

「お前たちすまないが席を外してくれないか」

 エドゥアルドの申し出に執務室にいたものたちが静かに辞していく。

 二人きりになった執務室で、エドゥアルドはハノンの頭を優しく、慰めるように撫でてくれる。

「泣きたい時は沢山泣いていいぞ。私の胸はお前のためにある」

 エドゥアルドの低く優しい声に涙はさらに激しさを増した。

 とにかく泣いた。涙に際限はなく、とめどなく流れていく。

 どんなに涙を流しても悲しみは消えない。だが、涙を流すことで少しずつ落ち着きを取り戻していった。イヤ、落ち着きを取り戻すことが出来たのは、エドゥアルドに抱かれているからかもしれない。

 どうにか泣きやんでみたものの、恐らくハノンの目は恐ろしいほどに腫れあがり、エドゥアルドに見せられない状態になっていることは容易に見当がついた。

「ハノン。少しは落ち着いたか?」

 答える代りにキュッと腕の力を強めた。

「そうか。少し放してもいいか? 目を冷やした方がいい。冷やすものを持って来るから」

 ハノンは腕の力をさらに強め、頭を左右に振った。

「もう少しこのままがいいのか?」

 頷くと、ポンと頭を一つ叩いた。

「分かった。でも、落ち着いたら私に話してくれるだろう?」

 再び頷くと、エドゥアルドは大きな力でハノンを抱き締めた。

 苦しかった。でも、苦しくない。


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