第66話
悲しみに暮れるオルグレン大公の手をイルゼがもう一度取ることは出来ないか。そう考えてみたが、エドゥアルドとトム爺さんに止められた。
複雑に絡み合った想いを戻すことは出来ない。今、二人が寄り添っても決して上手くいかない。
今はまだ何もしない方がいい。もっと時間が開いてからじゃないとダメだ。
きっとその通りなんだろう。オルグレン夫人が亡くなったからといって直ぐにどうこうできるわけないんだ。人の心はそんなに単純じゃない。
「でもさ、私は願うよ。いつか二人が幸せになってくれたらいいってね」
「そうだな」
ベッドでエドゥアルドにくるまれながらそんな会話をしていた。
「明日、イルゼさんのところに行ってみる。きっとオルグレン夫人が亡くなったこと知ってるよね」
「知ってるだろうな。魔女は何でも見ているからな」
イルゼは何でも見ている。恐らくハノンに関することなら何でも。それはプライベートを覗き込まれているのだから、気分が悪いのだが、最近ではどうしても覗いて欲しくない時には自分を隠す術を学んだので気にもしていない。
エドゥアルドは全て覗かれていると思って腹を立てているようだ。
一通りの侍女としての仕事を終えたあと、ハノンはイルゼの元へ飛んだ。
「ハノン。いらっしゃい」
ハノンの来訪を待っていたイルゼはテーブルでお茶を入れていた。その隣にはぼんやりと座っている元アデルドマーノ王国国王であるバウティスタがいた。虚ろなその瞳は何かを見ているようで、何も見てはいないのだろう。
「さあ、どうぞ」
差し出された紅茶にゆっくりと口を付けると、ちらりとバウティスタを見た。
「大丈夫よ、ハノン。確かに今は頭の中が混乱しているけれど、一国の王だったのだもの立ち直るでしょう」
「そっか。そうだよね?」
そうよ、とイルゼは微笑んでハノンを安心させた。
イルゼの話によると、バウティスタは日々を畑仕事などイルゼの手伝いをして過ごしているようだ。
声はまだ発しないものの、イルゼの言うことはよく聞いているとのことである。もしやイルゼのことが怖くて指示に従っているのではないかと思ったが、バウティスタの表情に恐怖の色は見えなかった。
「ハノン、昨日あの人のところに行ったわね?」
責めるでもなく、悲しんでいるでもなく、もちろん喜ぶでもなくイルゼは淡々とした口調で尋ねた。
イルゼの言うところのあの人がオルグレン夫人をさすのか、オルグレン大公をさすのか、それともトム爺さんをさすのか悩むところだが、その内の誰かであることは間違えようもない。
「うん」
「ベアトリスはきっと私を憎んで死んだんでしょうね」
なんと答えられるだろうか。
少なからずオルグレン夫人がイルゼを憎んでいたのは事実であろう。だが、死に差し迫った時、オルグレン夫人がイルゼを憎んでいたかといえば、違うような気がする。
オルグレン夫人には、ハノンの記憶がないのだ。オルグレン大公が結婚する前にイルゼと付き合っていたことは知っているようだが、それから先に二人が接触を取ってはいないということになっているようだ。
「ハノン。私はね、憎まれることを覚悟していたの。憎まれることを受け入れてるの。何も怖くない。あなたを守るためなら」
「もういいよ。イルゼさんはもっと自分のこと考えてよ。いつも私のことばっかり」
「私の生きがいを取り上げないで。あなたは私の生きがいなのよ」
イルゼが今にも泣きだしそうな顔をするので、ハノンはそれを認めるしかなかった。本当はもっと自分のために、自分の幸せのために生きて欲しい。けれど、イルゼさんの幸せをハノンが押し付けることは出来ないのだ。
「イルゼさんはトム爺さんとよく会う?」
「いいえ、最近はあまり会わないわね。トムさんには迷惑かけたわ。あの人はきっと全て自分のせいだって思っているんでしょうね?」
「うん。呆れるくらい自分を責めてる」
ハノンがそう言うと、そんなトム爺さんが目に浮かんだのか、イルゼは可笑しそうにクスクス笑った。
「私たちはみんな負い目を抱えて生きていくの。そんな風にしか生きていけないのよ」
まるで負い目があるから今、生きていけると言っているようだ。
ハノンにはよく分からなかったが、それを説明するつもりはないようだ。
「あら、そろそろお昼の時間ね。バウティスタ、野菜を取ってきてくれる? ハノンもバウティスタを手伝ってあげて」
ハノンは元気よく返事をしたが、バウティスタはこくりと頷いた。イルゼの話を聞いていただけよしとしよう。
イルゼの庭の畑には、陽が差し込むように木が魔法によって避けられている。イルゼの家だけがスポットライトで照らされたように明るいのだ。
「バウティスタさん。野菜の収穫の仕方は知ってるんだよね?」
話し掛けるが、バウティスタの視線は空を見ているようだ。
「……空って綺麗だよね。私はね、初めて空を見たとき驚いたんだ。こんな綺麗なものを私は知らなかったんだって思ったら、その無駄にした月日の分だけ見ていたいって思ったんだ」
ハノンがオルグレン大公の屋敷からでてチチェスター家に養子になってから、ジェロームは頻繁に散歩に連れていってくれた。頭上に広がる青いそれが空というものだと教えて貰った日には、始終上を見て首を痛めたものだ。そんなハノンをジェロームはよく馬鹿にしていた。
「空……」
「うん。空だよ」
バウティスタはあの頃のハノンのように食い入るように空を見上げていた。
「私は……空を始めてみたかもしれない。美しい……」
バウティスタは子供の頃から国王になるべく教育を受けて来ただろう。ある意味王族という身分に、国に縛られていた。そういった意味ではハノンと似ているのかもしれない。
空を見上げることすら出来ずに生きて来たこの青年を心底気の毒に思った。
「バウティスタさん。世界には美しいものが一杯あるよ。この大きく広がる空だってそうだし、この森に広がる木々だってそう。森の中には泉がいくつかあるし、滝だってある。森を抜ければ草原が広がっていて、花々が力強く生きている。耳を澄ますとね、生きているものたちの息遣いが聞こえてくるよ。世界には色んなものが生きている。人、木々、花、動物。そういうものを感じることは凄く素敵なことだよね。私はね、この世界が大好きなんだ。だから、バウティスタさんも色んなものを聞いて、見て、感じて、そして好きになってくれたらいいな……」
戦争によって壊されるのは人だけではない。動物も町も家も道も草花も木々も空気も。それらを失った人の心も。
壊されて来たものが再生する自然の力も、再び立ち上がろうとする人々の力もとても力強いものだ。戦争が起こって、壊されたとしても立ち直るだろう。けれど、その記憶は残る。それはとても悲しい記憶だ。
バウティスタは痛みと苦しみと悲しみ、優しさと暖かさと強さを知るべきなんだ。それを知る為には、この森は丁度いい。バウティスタの心のリハビリにはこの森の優しさと厳しさはとてもいい。だから、イルゼはバウティスタをここに連れて来たのだろう。彼を傷つけた責任として、立ち直らせる為に。
「好きに……なれるだろうか」
「なれるよ。好きになろうとしないでいいんだ。心の中に自然と芽生えてくる感情だから」
ハノンがバウティスタを見て微笑めば、バウティスタはまだまだ弱々しいが小さな笑顔を返してくれた。