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第65話

 トム爺さんは間近でイルゼとアデルバート、ベアトリスを見てきた。けれど何も出来なかったとずっと負い目に感じていたのだ。

 ハノンにも負い目はある。自分という存在自体がハノンにとっては負い目なのだ。

 トム爺さんに気にしなくてもいいのでは、と言ったところで何の足しにもならないことを知っている。ハノン自身がそうであるからだ。きっとこんな気持ちを一生持ち続けていくのだろう。誰もが。

「オルグレン夫人に会いたかったな」

 オルグレン夫人にはハノンについての記憶がないので、突然会いに行くのはおかしいし、ハノンが会いに行くことにより記憶が戻って精神状態が乱れてしまうことも考えられた。だからハノンは会いに行くことが出来なかったのだ。

 オルグレン夫人に対する記憶は決していいものではなかったが、それでも同じ家で暮らしていた家族なのだ。

 いつか会えたらと思っていたのに。いつか退院して、完全に心の病が治ったらと思っていたのに。

 もう、二度と会えない。

「まだ間に合うかも知れんな。行くかの? 埋葬には立ち会えるかもしれん。ハノンとオルグレン夫人の関係を知るものはいないからの。もう話をすることは出来んが」

「行きたい」

 ハノンの記憶の中のオルグレン夫人の顔は闇だ。暗くて黒くしか見えなかった。オルグレン夫人がどんな顔をしていたのか、どんな風に話して、どんな笑顔を見せるのか知らない。ハノンが覚えているのはハノンを罵るかなきり声だけだ。

「エド殿下。行ってもいい?」

「ああ、行こうか」

 トム爺さんの話では、今頃墓地に埋葬されるころではないかという。

 この国では土葬されるのが一般的だ。教会で簡単な葬儀が行われてから、埋葬されることになる。


 トム爺さんに連れられて来たのはお店からさほど遠くない墓地だった。

 身内だけのささやかな葬儀だったらしいが、それがかえって啜り泣きを際立たせていた。

 近くまでいくつもりはなかった。ある程度離れた場所から見れればよかったのだ。

 大きく掘られているであろう穴の中にはもうすでにオルグレン夫人が横たえられているのだろう。

 その穴の横にオルグレン大公が俯きがちに立っている。もしかすると泣いているのかもしれない。

 駆け寄って抱き締めてあげたいと思うが、ハノンがそんなことをするのは懸命ではない。

「ハノン。ここでいいのか?」

「うん。ここで十分だよ」

 ハノンに見送られたところでオルグレン夫人は喜ばないに違いないから、だからハノンは影からこっそり見送るのだ。

 血縁者が集まっているのだろうが、ハノンが知るのはオルグレン大公だけのようだ。

「トム爺さんは行かなくていいの?」

「わしもここでいいんじゃ」

 トム爺さんが口に出したわけではないが、オルグレン夫人に顔出しできないと思っているような気がした。

 血縁者たちが一人ずつ一輪の花を落とし、土を落としていく。

 オルグレン大公は埋まりゆく妻の姿をぼんやりと見ていた。

「大丈夫かな……」

「ハノンは優しい子じゃの。恨んでもおかしくはない状況なのにの」

「別に優しくなんてないよ。あんな状況で育ったからなのかな、心に欠陥があるのかも。誰かを心底憎いなんて思ったことない。でも、そんな悲しい感情なくて良かったなって今はすごく思うんだ」

 ハノンが優しいわけじゃない。

 誰かを憎いと思う感情が沸いてこないのだ。怒りはある。だがそれは強いものではないし、長続きもしない。

 ハノンはそんな自分で良かったと思う。誰も憎まずにすんだのだから。

「わしがハノンを預かっていたら何かが変わっていたかもしれんな」

「あの汚い部屋でか? トム爺んとこで暮らしてたら、小汚い娘になってたかもしれないだろ?」

「私もそう思う。きっと私はあそこで生まれて良かったんだって思うよ。普通の人とは違う幼少時代を過ごしたのかもしれないけど、別に不幸ではなかったし」

 幸せだと思ったことはなかった。そもそも幸せという言葉の概念を知らなかった。でも、今考えれば、決して不幸ではなかった。まだ不幸というものがどんなものか本当のところは理解出来てはいないのだが。

「トム爺さんは私にも負い目を感じてるの?」

「そりゃそうじゃ。わしがイルゼを止められていれば、あの夫婦があそこまでこじれることはなかったんじゃ。わしがあの夫婦を止められていればハノンが傷付くこともなかった」

「それ、必要ないから。だって私傷付いてないもん。トム爺さんがそんな風に思ってるんだって思う方が傷付く。だから、もう私に対して負い目に感じないで。そんな暇があるなら、私になにか面白いものを作って?」

 笑顔を作ってトム爺さんを振り替えると、目頭を押さえて肩を震わせていた。

「トム爺さんっ?」

 驚いてトム爺さんの背中を撫で、エドゥアルドに助けを求めた。エドゥアルドはにこりと微笑んで頷いた。

「すまんの。年寄りは涙もろいんじゃ。……そうじゃな。ハノンのために面白いものを作るとするかな」

 鼻を啜りながら、しかししっかりとした口振りでそう言った。

「うん」


 埋葬は終わり、その場を後にする親族の中、オルグレン大公だけがその場から動こうとしない。

 そして、墓地の中一人だけぽつりと立ちすぐんでいた。

「私、行ってくる」

「待て、ハノン」

 エドゥアルドの声が追い掛けてきたが、それには応えなかった。

 見ていられなかった。あまりに悲しそうなその背中を。

 何故ここにいるのか、聞かれてもどう答えようかなんて考えてもいなかった。ハノンは衝動的に動いたのだ。

 オルグレン大公の隣に立ち、力の入らないその手を握り締めた。

 僅かに驚いた表情でハノンを見た。

「ハノン。一体どうしてここに?」

 その声にいつもの強さがなかった。

「友達だからっ。オルグレン卿が私を呼んだような気がしたから飛んできたの」

 我ながら咄嗟になんてことを言っているんだと思ったが、オルグレン大公は少しだけ微笑んだ。

「ありがとう」

「奥様が亡くなられたんですね?」

「ああ」

 小さな声だった。そう聞こえただけで、本当は声など出していなかったのかもしれない。

 ハノンに向けられていた視線をオルグレン夫人が眠っている墓に向けた。ハノンもその視線をなぞって墓を見た。

 もう、顔も思い出せない母がここに眠っている。

「私はね、妻を愛していなかった。一度も愛すことが出来なかった。私はなんて酷い人間だったんだろう」

 口からこぼれ落ちるようにぽとりぽとりと言葉を紡いでいく。

 ハノンはオルグレン大公の懺悔を黙って聞いていた。

「最後は笑っていたけれど、きっと幸せなんかじゃなかったはずだよ」

 そんなことない。そう言うのは容易い。だが、オルグレン大公がそんな言葉を望んでいないと思えた。

「私はなんてことをしてしまったんだろうね。彼女を見てあげようとすらしなかった。自分の中に残っている女性のことばかり見つめて。もっとしようがあったんだ。もっと……」

 オルグレン大公の手に力が入った。

 オルグレン大公が泣いている。見なくても分かる。悲しみの空気が揺れていた。

 力のこもった手から苦しみが伝わってくる。

 ハノンは何も言わず、まっすぐ墓を見たまま、悲しみに暮れる父の手を強く握り締めていた。


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