第64話
その店の扉は大きく開け放たれていた。
店のある周りには人があまり見当たらない。完全に中心街から外れたところにあった。
「入んないの?」
店の前で足を止めたエドゥアルドに声をかけた。少し顔が青ざめているようにも見えるが、気のせいだろうか。
「イヤ、入るよ。あのな、トム爺に何を言われても本気にするなよ?」
「うん? 何のことかは分かんないけど、まあ、分かった」
何を気にしているのか、何を心配しているのか、何を言われることになるのか、エドゥアルドは何を嫌がっているのかよく分からない。
事前に知らされた情報と言えば、王城の隠し部屋を作った人だということ。
エドゥアルドが諦めたように歩を進めた。
「トム爺来たぞ」
店の中に入るとエドゥアルドが大声を張り上げたものだから、隣にいたハノンはびっくりして飛び上がった。
店の中に人影はなく、奥の方で何かがごそごそしている音だけが聞こえる。
店といっていいのか、と不安になる店内には、不思議なものが色々と置かれていた。
見たこともないもの、何に使うのか分からないもの、ゴミなのか売り物なのか判別のつかないものが無造作に置かれていた。
手にとってみたいと好奇心が疼くものの、恐ろしくて容易には触れない。
ハノンが手を伸ばしたり引っ込めたりと、葛藤しているところに白い髭をたずさえたお爺さんが現れた。
「おぅ、エドゥアルド。ようやくお嬢ちゃんを連れてきたか。待ちくたびれたわい」
温和そうな笑顔がハノンに向けられる。
頑固そうなお爺さんを連想していたハノンにとっては予想外だった。
「ハノン。トム爺だ」
「はじめまして。ハノンです」
「これは美しい。噂通りじゃな。エドゥアルドが夢中になるわけだ。まあ、中に入るといい。茶くらいだすわい」
ハノンの黒い髪と瞳を見て、優しくそう言った。
エドゥアルドに促され、店の奥に向かうが、中も店と大して変わらず乱雑にものが積み上げられていた。
「お嬢ちゃん。その辺は触らん方がいいぞ。雪崩が起こるからの」
ふぉっふぉと笑っていたが、瞳の中は真剣であるところをみると、それは大袈裟でも何でもないということだ。
「そんなに積み上げるからいけないんだ。暇なら整理すればいい」
「わしに暇などないわい」
「それは自分の趣味のためだろ」
「まあそうとも言うわな」
思っていたよりもはるかにエドゥアルドとトム爺さんは仲が良い。先程から楽しそうに絡んでいる二人をみるのは面白い。
「お嬢ちゃん、ハノンは父親によお似とるのう」
右の眉を上げて、ニヤリと笑いながら投下した爆弾は思いの外強力なものだった。
「トム爺さんは私のお父様を知っているの?」
「知っておる。おお、これは秘密事項じゃったかな?」
立派な白い髭を手で擦り、愉快そうに笑いながらあっけらかんとそう言った。
「当たり前だ。少しは考えてものを言えよ。それにしても何でトム爺が知ってるんだ? 私は教えた覚えはないぞ」
「わしは顔が広いんじゃよ。だてに年は取っておらんということじゃな」
トム爺さんとオルグレン大公の接点が分からない。一体いつから知り合いだったんだ。
「不思議かい? 実はな、大分昔になるがな、ハノンの父親に指輪の依頼を受けたことがあるんじゃ。イルゼに贈ろうと思っていたようじゃが、タイミングが悪くてな、結局彼女に渡ることはなかったがの」
オルグレン大公はイルゼと共に生きようと考えていたんだ。それは結局現実にはいたらなかったが。
「じゃあ、その指輪はオルグレン卿が持ってるのかな?」
「そうかもしれんし、そうじゃないかもしれん。見れば嫌でも思い出してしまうだろうからな、どこか目の届かないところに隠したかもしれんし、もしかしたら捨ててしまったかもしれん」
トム爺が淋しそうに言う。贈られなかった、指にはめられることのなかった指輪がなんだか可哀相になった。
「オルグレン夫人のことは知っていますか?」
ああ、と唸るように頷いたトム爺は何かを言いにくそうにしている。
「どうかしたんですか? 私は大丈夫ですから話してくれませんか?」
「つい一昨日のことじゃ。オルグレン夫人は息を引き取ったのは……」
「え?」
「オルグレン夫人が精神を病んでいたのはしっとるかね?」
オルグレン夫人が精神を患ったのは、そのお腹から生まれた赤ん坊があまりにイルゼに似ていたからだ。最悪なシナリオを思い浮かべ(それは全く事実であったのだが)、やがてその闇に呑まれてしまった。
「うん」
「決して精神錯乱を起こして身を投げたわけではないんじゃ。彼女は元々体が弱かった。そう長くは生きられんと医師から宣告されておったんじゃ。病で逝ったんじゃ」
ハノンが産まれなければ、オルグレン夫人が精神を患うことはなかった。そう思うハノンを気遣ってくれているのが痛いほど分かる。
「オルグレン夫人は幸せだったのかな?」
「苦しいことも多かったじゃろうが、最後は幸せじゃったろうよ。アデルバートはハノンの誘拐事件を引き起こしたあと、ベアトリスの看病に専念したんじゃ。仕事のない日はずっと傍についておった。それが嬉しかったんだろうな、ベアトリスは普通の精神状態に戻っておった。結婚する前のように笑顔を絶やさなくなった。最後は笑顔で逝ったそうじゃ」
「アデルバート……。ベアトリス……」
「オルグレン夫妻の名前じゃよ」
ハノンは両親の名前すら知らなかったのだ。
「私、全然知らなくって……」
トム爺さんがハノンの頭を少し乱暴に撫でた。
「どうしてトム爺さんはそんなに詳しいの? イルゼさんのことも知ってるの?」
「わしはアデルバートの伯父なんじゃ。アデルバートの父親は、わしと違って家柄だの身分だのとそんなことにばかり目がいってしまう弟じゃった。わしとは真逆の考え方だったから折り合いも悪かったんじゃが、アデルバートのことはわしも可愛がっていたんじゃ。アデルバートとイルゼの関係も知っておった。わしはあの二人の相談相手になってたんじゃ。それはもうお似合いでな、心底想い合っておった。弟が貴族の令嬢とのお見合い話を持って来た時には、わしも反対したんじゃが頑固でな、結局止められんかった。イルゼが身籠ってるのも知っておったし、何をしようとしているかもしっておった。あの三人を近くで見ておったのに、わしは何にも出来んかった。誰も救えず、事態は悪化していく一方じゃったよ。本当にわしは何一つ出来んかった……」
トム爺さんの瞳から涙が零れ落ちた。
トム爺さんのせいじゃないのに……。トム爺さんはハノンの両親たちのこと、そしてきっとハノンのことも気にかけてくれていたのに。
誰がどうすれば、あの時ああはならなかったとか、こうしていればああしていれば。思うことは沢山ある。後悔ばかりが次々と脳裏を支配していく。
きっとみんなどこかしら悪くて、悪くないんだ。
「トム爺さんと私は血が繋がってるんだね。嬉しいな。あのね、私、親戚の人に会ったの初めてなんだ。イルゼさんはあの時、私を知る存在の記憶を全て消してしまったから。イルゼさんしか真実を知らないから。どうしてイルゼさんはトム爺さんの記憶を消さなかったのかな」
「わしが止めたんじゃ。わしの記憶は絶対に消させんよ。わしは罪を背負って行くんじゃ。何も止められんかったわしの罪は重いんじゃ」