第63話
ハノンより少しだけ先に目覚め、彼女の寝顔を窺うのがエドゥアルドの至福の時だった。
今朝もハノンの寝顔を堪能していた。ふいに悪戯心に火が点いて、ハノンの頬をつんとついてみた。迷惑そうに眉をひそめたあと、エドゥアルドの胸に頬をすりつけ、にこりと笑ったあと再び小気味いい寝息をたてはじめた。
こんなに可愛らしく、見ていて飽きない愛らしい存在を目にしたのはハノンが初めてだった。
ギュッと抱き締めたかったが、そうしたら恐らく目覚めてしまう。もう少しその愛らしい寝顔を見ていたかった。
ハノンが黒の魔獣だということで巻き込まれた事件に、彼女が自己嫌悪していたことを知っていた。自分の無力さを感じているようだった。本当は無力などではなく、十二分に活躍していたにもかかわらずだ。役立たずというなら、エドゥアルドの方であることにハノンは気付いていない。エドゥアルドこそ自己嫌悪に襲われていた。自分の非力さに。ハノンを守れない非力さに。
ハノンをこの城に留めることは、彼女にとってはあまり幸せなことではないのかもしれない。だが、もう手放してやれない。ハノンなしの日常はもう送れない自信がある。
エドゥアルドの我が儘であるのに、不安そうな表情で自分でいいのかとハノンは聞いてくる。
エドゥアルドはいつも考える。どうすればハノンの不安を取り除けるのか。少しでも安心させてやれているのか。
エドゥアルドこそ問いたい。
「お前は私でいいのか」
と。
ハノンがどんな返答をくれるか、知っている。戸惑いなくエドゥアルドがいいのだと言ってくれるだろう。そんなハノンを心底愛おしいと思うのだ。
昨夜、自分の欲望のたがが外れて無理をさせてしまった。それなのにエドゥアルドを喜ばせようと、それに懸命に応えようとするハノンに心の中で誓いを立てた。
ハノンをこの命をかけて守り、愛し抜こう。
エドゥアルドの心の誓いなど知らずに気持ち良さそうに寝るハノンに知らず笑みがこぼれた。
「んんっ」
エドゥアルドの視線に気付いたのか、ハノンが目覚めたようだった。
「う? エド殿下?」
「おはよう、ハノン」
エドゥアルドをぼんやりと眺めていたハノンが、ハッと目を見開いたあと、急に顔を赤らめた。おおかた昨夜のことを思い出したのだろう。
その様子が可愛くて、少し苛めてみたくなった。
「可愛かったな、昨夜のお前は」
エドゥアルドが予想したよりも激しく顔を真っ赤に染めて、狼狽えるハノン。
じっとその表情を観察していると、見られていることに気付いたのか露骨に顔を反らした。
「エド殿下のエロオヤジっ。バカッ。おたんこなすっ。もう、知らないっ」
懸命に悪口を絞りだすが、いつもの迫力はまるでない。
「悪かった」
笑ってそう言えば、気を悪くしたのか頬を膨らませた。
「ハノン、悪かった。機嫌を直せ」
顔を背けているハノンの頬にわざとリップ音を立ててキスをした。
「なっ」
頬を押さえて睨み上げるハノンの瞳がほんのり潤んでいた。
苛めすぎたかと若干後悔しないでもない。
「すまない、ハノン。つい」
「つい何?」
「ついお前が可愛かったから」
「そういうのは言わなくていいっ」
「お前が聞いたから、言ったんだぞ」
ううっ、と低いうなり声を上げるハノンの頭を撫で、耳元で囁いた。
追い討ちをかけてしまったかもしれないが、エドゥアルドは満足していた。
「今日から私は執務に追われることになる。夜しか会えないな。せめて一緒に朝食を取ろう。そうでないと一日頑張れそうにない。付き合ってくれるか?」
いつもなら拒むそれを今日は受け入れてくれる。
普段は侍女として配膳してくれる側にいるからだが、今日はエドゥアルドに同情してくれたのか、それとももう少し恋人同士でいたいと思ってくれたのか。
「今日は、クライヴ殿下とピアのところに行ってくるね。それからイルゼさんとバウティスタのところにも行ってみようと思う」
いつもと変わらぬハノンに戻ってしまったことが少しばかり淋しくもあったが、エドゥアルドの顔を正面から見て嬉々として語るハノンも可愛くて見飽きることはない。
「そうだな、一緒に行きたいが、お前からよろしく言っておいてくれ」
「うん、分かった任せて」
「おお、そうだ。執務が落ち着いたらトム爺のところにも行かなくちゃな。あんまり焦らすとあとがうるさい」
「ああ、前言ってたお爺さん?」
トム爺はオルグレン大公が引き起こした事件において使われた隠し部屋を作った男だ。
よりによって悪用されるとは思っていなかったんだろうが、少しは悪いと思っているだろう。
「そっか。楽しみだね。そのお爺さんの家って遠いのかな?」
「多少な」
そっか、と頷いたハノンの口が弛んでいたのに疑問を抱いた。
「どうして笑ってるんだ?」
「だって、ちょっとした旅みたいじゃん。この間は、ことがことだっただけに楽しむって気分じゃなかったから」
多少遠いといってもたかが知れているのだが、あまり王城の外を知らないハノンにはちょっとした旅の気分なんだろう。
「トム爺のところに行った帰りには、お前が行きたいところに立ち寄ろう」
いまだかつてハノンがこんなにも目を輝かせていたことがあったか……。
くだらないと分かっていたが、嫉妬している自分に気付いた。誰に対して、何に対して嫉妬しているのかは謎ではあるが。強いて言うならハノンをこんな輝かしい目にさせる、町だろうか。
そのくだらない嫉妬よりも自分に向けられたまばゆい笑顔にそれ以上考えてもいられなくなった。
ハノンの笑顔が見たいがために、次々と迫り来る執務の山をせっせと片付けていったのは言うまでもない。そして、カーティウェルに戻って一週間後、ようやく休みを取ることが出来た。
ハノンは飛び上がらんばかりに喜び、珍しく積極的に自らキスまでする(頬であったのがハノンらしいが)始末であった。
子供のようにエドゥアルドの手を取り、飛び上がってはしゃぐハノンの姿を見る周りの連中の視線は、まるで孫を見ているようなものだったと推測している。かく言うエドゥアルドもまたそんな目をしていたような気がする。
それに気付いたハノンは王城を出てすぐに機嫌が悪くなったが、町並みが見え、人でにぎわう界隈に差し掛かると機嫌が悪かったことなど忘れてしまったかのように上機嫌になった。
あっちにもこっちにも寄りたそうに視線を寄こすが、敢えて気付かなかったように歩調を変えずに町を突っ切って行く。
今日の目的はトム爺だということを忘れて貰っては困る。
多少不服そうに町を名残惜しそうに見ていたが、それも見えなくなると諦めたように前を向いて歩いている。
ハノンは城に上がるまで、本当に町をまともに見たことがないのだ。
見せて貰えなかった。箱入り娘と言えば聞こえもいいかもしれないが、ハノンの場合軟禁されていたのだから、全く穏やかではない。
エドゥアルドが出来ることならば、これから色んなことを経験させてやりたいと思う。今からでも決して遅くはない筈だ。
「ねぇ、エド殿下っ。あそこなんでしょ?」
ビバルに教えられたのかトム爺の店のドアを指さす。エドゥアルドが頷くと、焦れたように手を取ると店の前まで引きずられていく。
何故だかその扉がとても悪しきもののように思えて、足を止めた。ハノンにトム爺があることないこと昔話を吹き込むことは目に見えていた。その惨状を思えば、このまま引き返したいと心底思うのだ。




