第62話
久しぶりに踏む故郷の土はとても懐かしく、性懲りもなく涙が零れそうになった。
我々はフェルナンが王に祭り上げられたことによる歓迎ムードに紛れるようにカーティウェル王国へと帰って来た。
イルゼがバウティスタを連れてきたことに初めルシアーノは驚いていたが、イルゼが事情を話し、自ら責任を持って面倒を見ると宣言すると、別段反対することはなかった。
アデルドマーノ王国にいた期間はとても短かったが、あまりに濃厚な出来事を経験したせいか長いこと滞在していたような気がした。
ハノンたちがカーティウェルについた頃には、フェルナンは正式な国王として即位していた。ハノンたちが去ったあとのアデルドマーノの対応は早かった。そもそもアデルドマーノでは、法で黒の魔獣の発言は絶対とされているらしい。あの場には、王侯貴族等も多くおり、イルゼの言葉をしっかりと耳にしていたので、フェルナンが王位を継ぐことに反対の意を唱えるものはなかった。その法は、ハノンやイルゼの先祖が過去にアデルドマーノに何らかの影響をもたらしたことにより、加えられたもののようだ。
「ハノン。心配していたぞ。大丈夫だったか?」
ルシアーノがそう声をかけ、レイラがハノンの頭を撫でた。
「心配かけてごめんなさい。でも、エド殿下やみんながいてくれたから、大丈夫だったよ」
少し後ろでハノンと戯れるルシアーノとレイラを呆れた顔で見ているエドゥアルドにちらりと視線を流す。それに気付いたエドゥアルドが笑顔をくれる。その笑顔が二人だけの特別なもののようで好きだ。
「エドゥアルドも無事で何よりだった」
「ありがとうございます。兄上」
ルシアーノはエドゥアルドの前まで歩み寄ると、抱き締めた。
誤解の溶けた兄弟だったが、いつまでたってもよそよそしさが消えなかった。現に今もエドゥアルドが当惑気味であるのだが、これくらいスキンシップを積極的に取ったほうがいいとハノンは考えている。
「落ち着いたら、お前たちの婚約を発表したらどうかと思うんだが……」
ハノンとエドゥアルドが恋人同士であることは周知の事実だが、まだ婚約を発表してはいなかった。
「そうね。それがいいと思うわ。もう、すぐに結婚してしまってもいいくらいなのだけれどね」
レイラが興奮したように声を弾ませた。
「結婚はクライヴ兄上がしてからと考えています」
「そう。でも、クライヴもピア嬢と上手くまとまりそうだし、それからでもいいわね」
少し残念そうにレイラは答えた。
ハノンは何も口を出さなかった。イヤ、出せなかったのだ。
「エド殿下。本当に私が妻になってもいいのかな?」
「いまさら何を言っている。お前以外の女を妻に向かえるつもりはないぞ。お前を逃がすつもりもない。諦めて私の隣にいろ」
エド殿下の部屋――もはや二人の部屋であるのだが――に戻って二人だけになって、たまらずにハノンはエドゥアルドに聞いた。
エドゥアルドはハノンを腕の中にすっぽりとおさめると、殊更に甘い声で言ったのだ。
「そっか。もう逃げられないんだ。じゃあ、仕方ないな」
ハノンが楽になるように逃がさないという言葉をエドゥアルドは使った。
いっそ縛ってくれたら、と考えていたことを知っていたかのようだ。
ハノンの不安は根強い。自分はここにいていいのかと、何度も思っただろう。自分はエドゥアルドに相応しくないのでは、と何度も怖くなっただろう。
エドゥアルドの言葉がハノンを楽にする。いてもいいのだと何度でも示してくれる。
「そうだ」
エドゥアルドの指がハノンの髪をするりと梳いていく。その指がゆっくりと頬をなぞり、唇に触れた。
見上げたエドゥアルドの瞳があまりに艶やかだったので、ハノンはその瞳から逃れる術を失った。
「エド殿下……」
「ハノン」
触れた唇が離れていくのが悲しくて、知らず追っていた。そんなハノンに小さく笑ったエドゥアルドは、再び唇を重ねた。
「ハノン。なぜ泣いているんだ?」
エドゥアルドにそう言われて、頬に手を当てれば、濡れていた。
「本当だ。なんでだろ?」
「私とキスするのがイヤか? それとも笑ったことに気を悪くしているのか? あれはお前が可愛かったからで、悪気は……」
「違うっ。違うよ。そんなんじゃないっ。なんか、嬉しいっていうか。また、ここに戻ってこれたんだなって。ホッとして。多分、それでひとりでに涙が出てしまったんだと思う」
自分でも涙のわけは上手く説明できない。ここに戻ってこれたことが嬉しいと言ってはみたが、それよりもなによりハノンがエドゥアルドと共に生きることを当たり前のように考えてくれていることのほうが嬉しかったのかもしれない。
一緒に歩むと言っていても、それをなかば半分現実では叶わないと考えていたから、ルシアーノやレイラさえもが現実的に考えていてくれたことが驚きと共に嬉しかった。
「もっとお前に触れたい。お前がイヤじゃなければ」
少し怯えながらそんなことを言うエドゥアルドが可笑しかった。
ハノンが断るとでも思っているんだろうか。
「そんなの聞かなくても答えは決まってるのに。私がエド殿下に触れられてイヤなはずないじゃんか」
それともあれは演技で、ハノンが言いにくいことを言わせるためなのでは。だって、あんなに嬉しそうに笑ってる。どちらにせよその笑顔を見てしまったら、何も言えないのだが。
ハノンがエドゥアルドの笑顔に見惚れている隙に、エドゥアルドに抱き上げられていた。横抱きにされ、あれよあれよという間に寝室に運ばれた。
壊れ物でも扱うようにベッドに寝かされ、初めてハノンは焦った。
ハノンに触れるというのは抱き締めることだと思っていた。でも、エドゥアルドの表情がいつもとは違った。これは、この状況は、抱き締めて寝るよりも上の段階に上がるということなのではないか。
侍女仲間がよく話している男女間の夜の交わりを今、ハノンはエドゥアルドと……。
侍女仲間が話す話はあまりに大人で、濃密で、大胆で、ハノンにはまだまだ関係のない話だと思っていた。
「ハノンが怖ければ今すぐ止める。怖いか?」
本当にまだまだ関係のない話だと思っていた。
「怖い……けど、エド殿下となら平気」
けど、エドゥアルドとならいつかそうなりたいと思っていた。エドゥアルドがハノンを求めてくれるなら、ハノンは自分の全てを曝け出そう。
「無理するなよ」
ハノンの上にのしかかっていたエドゥアルドが、ハノンのおでこにキスをして離れていく。
ハノンは離れていくエドゥアルドの服をギュッと握り締めて止めた。
「無理なんかしてない。エド殿下となら怖くないのにっ。エド殿下に触れて欲しいのにっ。逃げないでっ」
エドゥアルドの唇で口を塞がれ、何も言えなくなった。
「私はお前を思って……。もう、逃げない。その意味がお前には分かるか? 逃げられないということだぞ」
真剣な瞳がハノンの瞳を虜にした。もとより逃げるつもりはない。
頷けば、幾多のキスがハノンを襲う。息の出来ぬほど、眩暈がしそうなほど多くの初めてが一度に駈け抜けていった。だが、それは決して不快なものではなくて、あまりに心地よくて恐れをなすほどのものだった。
いつか想い出すだろう、この夜のことを。
その時のために、ハノンは恥ずかしさを堪えて全てをこの目に刻もう。