第61話
広場の中は大きな一つの蟻の大群のようになっていた。
長距離戦を目論んでいた国王軍は、矢が弾き飛ばされたのを見て、動きだしたようだった。あの中に国王もいるんだろうか。
国王軍が動きだしたことを事前に示し合わせていた合図で国民に伝える。一人にその旨が伝われば、すぐにエドゥアルドやフェルナンにまで伝わるだろう。
その合図により、今まで遠巻きにしていた女性たちが動き出した。戦に巻き込まれないように、イルゼが建てた家の中に避難するように言ってあったからだ。家のなかは既にここにいる国民を全て収容できるほどの広さに拡大してあり、強度も問題ないものにしてある。女性たちは子供や老人を引きつれて建物に向かう。貴族の身分階級を重んじる女性たちが駄々を捏ねるかと心配していたが、それも杞憂だったようだ。突然勃発した暴動に脳が上手く稼働していないようだ。
丁度避難が完了した頃、国王軍が町のはずれに到着した。
ハノンが二度目の合図を送ると、今まで家と家の影に隠れていた国民たちが動き出したのが見えた。
さささと国王軍に気取られないように近付き、国王軍が完全に町に入ったのを見て、左右背後を取り囲み広場へと誘導する。
国王軍は国民軍の壁を崩そうと、矢を放つが弾かれて足元に落ちる。何度も同じことを繰り返し、矢も全てを使い果たす。刀を抜いて振り下ろすも、弾き飛ばされ、腕を振り下ろすもダメージは己に返ってくる。
早々に諦めた国王軍は、国民軍の導かれるままに広場へと歩く。
その背中に国王軍としての誇りも権威もない。
国王軍を広場の噴水の前に追い詰め、国民軍がじりじりと間をつめていく。その国民軍の一番後ろから徐々に道が開かれ、一本の通り道が出来た。
魔獣の姿をしたイルゼとハノンがその道を歩いていく。ハノンとイルゼの正体を知らなかった国民たちは突然現れた黒の魔獣に唖然としている。勿論その二匹がハノンとイルゼと分かるものはいない。
国王軍の反応も似たり寄ったりで、口を開いているものが多かった。
「国王はいるか?」
イルゼの声が沈黙した広場にこだました。
国王がいるのに隠れているのか、いないのか誰も立ち上がらない。
「国王はいないのか?」
再び声をかけると、もやしのように白くて細い男が立ち上がった。
「お前が国王か?」
「は、はい」
「ウソはつくな」
魔獣の姿のイルゼを初めて見た。ハノンよりも幾分大きいだろう。その姿は可憐で美しく、偉大だった。それこそハノンの何倍も。
立ち上がった男が国王でないことは、ハノンにも分かっていた。国王を庇うために名乗り出たのだろう。
その男の隣にいた男が、立ち上がり立っていた男を下がらせた。
「もうよい。お前は下がっていろ。……私がアデルドマーノ国王、バウティスタだ」
「そうか。お前が無能で変態だという国王なのだな」
魔獣の姿の時のイルゼのしゃべり方はいつもと少し違う。声もいつもより低い。それは多分、敢えてそうしているのだろう。より強く、威厳あるように見せるために。
「酷い言われようだ。まさか、黒の魔獣に出会えるとは思わなかった。それも二匹も同時に」
バウティスタに反省の色は露ほども見られない。この珍しい状況を面白がっているように見える。
「お前は戦場に上がったことがあるか?」
「ないな。私は遠くで見ているのが好きなんだ。それに私が死んだらみなが困る」
「お前が死んでも誰も困らない。お前の代わりはいる。人の痛みも苦しみも分からないお前は国王には相応しくない」
「私は国王だ。何も知らなくても、命令さえしていれば、下は動く。下の気持ちなど考えていられるか」
バウティスタに王の器はない。この場にいた者は全員そう思っただろう。王の従者でさえも。
「お前は知る必要がある。人の痛みを」
そうイルゼが言うと、バウティスタの体は黒いシャボン玉のようなものに包まれた。
その玉がふわりと宙に浮かんだ。バウティスタはジタバタと体を動かして玉をわろうとするが、玉はバウティスタの体の動きに合わせて形を変化させるが決して割れることはない。
「腕を切られる痛み。首を切られる痛み。胸を刺される痛み。体の中を毒が蝕む痛み。家族を思う心の痛み。誰かを想いながら死にゆく痛み。殺したくもない誰かを殺した罪への痛み……」
黒いシャボン玉の中でバウティスタはもがき苦しみ、叫び、涙を流していた。
いくつもの痛みや苦しみを一度に受けたバウティスタはもう王としては立てないだろう。これだけの苦しみを与えられ、それでも立っていられるだけの精神力がなければ真の王にはなれないのかもしれない。
目を塞ぎたくなるような光景を、けれども誰も目を反らさなかった。
いつの間にか現れたエドゥアルドがハノンを励ますように前脚を撫でてくれていた。
「お前に王の座は相応しくない。違うか?」
黒いシャボン玉が弾けると、バウティスタは地面に叩きつけられた。虚ろな目をしたバウティスタはイルゼの質問に答えられるゆとりはなかった。
「フェルナンっ。お前が王になれ。お前には継承権があるのだから」
確かフェルナンは継承権を放棄したと言っていたが、あれは嘘だったのか。決まり悪そうなフェルナンの顔が嘘だったことを物語っていた。
「フェっフェルナン王、バンザイ」
誰かが叫んだ。それが合図だったかのように、国民が叫びはじめた。国民も国王軍も今まで戦っていたのが嘘のように両手を上げて一人の男を讃えていた。
「フェルナン。バウティスタは私が預かる。こんなふうにしたのは私だから。構わない?」
「ですが……」
「大丈夫だ。悪いようにはしない。私を信じていい」
「……兄上を宜しくお願いします。そして、ありがとうございました」
「私たちのことはいい。国民が待っている」
フェルナンは頭を深く下げると、国民たちの中心へとかけていった。
「私たちは行きましょう」
イルゼが普段どおりの柔らかい調子で言った。カイルがバウティスタを担ぎ上げ、イルゼが建てた家に向かった。
人気のない道で、人の姿に戻った。
「イルゼさん。本当はあんなことしたくなかったくせに」
隣を歩くイルゼにそっと声をかけた。
人が苦しんでいる姿を見ていられる人ではないのだ。イルゼが強く力を入れていたのを感じていた。見ていられないのに、踏ん張って平気なフリをしていたのを知っている。一番苦しんでいたのを知っている。
「平気よ」
「少しは頼ってくれてもいいのに。そりゃ、私は頼りないのかもしんないけどさ」
「頼ってるわ。本当なら私一人でこのくらいやってしまわなければならないのに、ハノンを巻き込んで手伝わせてしまったわ。頼りっぱなしよ」
イルゼがハノンを抱き締めた。体が小刻みに揺れていた。
恐かったのだろう、とても。それでも逃げ出さなかったのは何故だろう。
「だってあなたがいたから。これでもあなたの母親だもの」
「私の心を読んだの?」
非難めいた声を上げると、イルゼは小さく軽快に笑った。
「少しは母親らしいこと出来たかしら」
「イルゼさんは何もしてくれなくても、私の母親で間違いないのに」
イルゼはハノンを愛してくれている。イルゼがする殆どのことはハノンを想ってのことだ。
ハノンもイルゼの役に立ちたいということをいつになったら分かってくれるんだろう。
「分かってるわ。でも、まだまだ私がしてあげるんだから、あなたはそれを素直に受け取っていてくれればいいのよ」
「あ、また心ん中読んだっ」
フェルナンをたたえる声が控えめな二人の笑い声をかき消していった。