第58話
フェルナンの言葉を信じるのであれば、彼は自国と自国民のために黒の魔獣の力を必要としているということになる。
信じてもいいものか……。
恐らく何度考えても答えなんて出て来ないんだと思う。答えを導きだすのは、結局はハノンが何を信じたいかということに尽きるだろう。
ハノンはフェルナンを信じたいと思った。
理由はいたって単純だ。国のために何をすべきかを熱く語るときのエドゥアルドと同じ目をしていたからだ。
「あなたのことを信じます」
エドゥアルドはハノンがこういう結論を出すと分かっていたのか、驚きの色は見られなかった。ハノンを非難する色も。横に並ぶアナが息を呑む気配を感じたが、ハノンの意思に従うつもりなのか何かを訴える様子はなかった。エドゥアルドとアナがハノンの意見を受け入れてくれたことで、まだあやふやだった自分の気持ちが固まっていくのがわかった。
「有難うございます。信じて頂いて嬉しいです」
初めてフェルナンが心の底から笑っている顔を見た。
こんな顔も出来るんじゃないか。
その笑顔は思った以上に美しく、ハノンは感心してしまったほどだ。
「取り敢えずエド殿下の拘束を解いてくれないかな? ちゃんと話をしよう。私の話はもっとくつろぎながら話したいよ」
フェルナンが兵士に目配せすれば、エドゥアルドの拘束はあっさりと解放された。
「ところでエド殿下。ビバルとカイルは?」
「ああ、今ごろ意識を取り戻しているところじゃないか」
苦笑を浮かべるエドゥアルドを見て、最早その意味を理解する。この兵士に二人はやられてしまったのだろう。ビバルはいいとして、カイルまでのされてしまったということは、相当な腕の持ち主だと言えるだろう。
感心していると、噂の二人が血相をかえて走ってきた。特に無口で表情筋の動きが乏しいカイルの表情は、今までに見たこともないほど歪んでいた。
「殿下。お怪我は? 貴様……」
こんなに長い文をカイルの口から紡ぎだされたことに、ハノンもアナも驚きに目を瞬いた。
「止めろ、カイル。私は大丈夫だ、問題ない。これから応接間に向かう」
納得しかねているカイルだったが、エドゥアルドにそう言われて仕方なく指示に従う。ちらりと兵士をねめつけることは忘れなかったが。
ぞろぞろと応接間に移動するとハノンとエドゥアルドはフェルナンと向かい合う形で腰を降ろした。
「ハノン殿。改めて私の言葉を信じていただけたことに感謝いたします」
「そんな堅苦しい挨拶はいいよ。それより結論から言うね。あなたが言うとおり、私は黒の魔獣だよ。まあでも私はまだまだ半人前かな。ね、エド殿下?」
「そうか? 十分強大な力を持っていると、私には思うが」
「いくら強大な力を持っていてもそれを自在に操れなきゃ一人前とは言えないよ。フェルナン王子が私に期待してくれんのは有り難いけど、私じゃ役不足じゃないかな。私が出来ることなんてたかが知れてる」
ハノンとて力になってあげたいと思う。国民の生活が楽になるように手を尽くしてあげたい。だが、今のハノンはあまりにも中途半端なのだ。下手をすれば国民を逆に傷つけてしまうことになりかねない。
その点で言えば、イルゼの方が適任だと思うのだ。
「少し王族や貴族たちを懲らしめてくれればいいんです」
「だから、今の私ではその人たちを懲らしめるだけでなく、命をも奪うことになりかねないのです」
「ある程度の犠牲は仕方のないことです」
言葉を失った。そんな言葉を聞くとは思ってもみなかった。
日常のように戦に明け暮れている国だからこその考え方なのだろうか。それともこれが王族の考え方なのか。しかし、エドゥアルドからこのような話を聞いたことはないので、それも国によって違うのかもしれない。
ハノンは犠牲など出ないことにこしたことはないと考えている。むしろ誰一人死んでほしくない。そう思うのは、ひどく子供な意見なんだろうか。甘い考えなんだろうか。
「私は甘いのかもしれない。でも、犠牲なんて出させたくない。むやみに人の命を奪っていいわけないんだ」
悲しくなった。人の命をそんな風に軽く見るようになってしまったフェルナンを。初めから彼が命を軽視することはなかっただろう。国を守るため、時には国民の命を犠牲にすることを彼に教えたのは誰か。
「しかし……。そうでもしなければ、これからもっともっと死ななくてもいい命が奪われていくんだ」
フェルナンが声を荒げて立ち上がった時、ハノンの胸の辺りにある鏡がぶるりと揺れた。
「フェルナン王子、ちょっとごめんなさい」
フェルナンに一声かけ、鏡の中を覗けばイルゼが心配そうに眉を下げていた。
「どうしたの、イルゼさん」
「あなたが困っているんじゃないかと思ったのよ。心配だったから、鏡にあなたの心が乱れたときは分かるように魔法をかけておいたの」
「そうなんだ。今ちょっとアデルドマーノ王国の王子と話していて……」
部屋の中は異様に静まりかえっていて、ハノンとイルゼの声だけが浮かび上がっているようだ。
「あら、もう捕まってしまったのね?」
「もしかして知ってたの? フェルナン王子が王子だってこと」
「知っていたわ。だから気を付けなさいと言ったでしょう? あなたは巻き込まれるに決まっているんだから。そんなことさせられないわ。そこに王子がいるのでしょ? 変わって頂戴」
ハノンはイルゼの指示に従って鏡をフェルナンへと手渡した。
フェルナンはハノンが突然鏡に向かって話しだしたことに驚いていた。
「フェルナン王子。久しぶりです」
イルゼの表情はこちらからでは窺い知れないが、その優しい声音から、彼らが旧知の仲であることが分かる。
フェルナンの方はまさか鏡の中から知人の声を聞くことになるとは思っていなかったのか、絶句して言葉も出ないようだ。
「フェルナン王子。もう、フェルナンっ」
反応の返ってこないフェルナンに少し強めの声が向けられる。
我に返ったフェルナンは慌てて言った。
「お久しぶりです。イルゼ殿」
「あら、他人行儀ね。昔はイルゼと呼んでいたのに」
「からかわないで下さい。昔はまだまだ私も子供だったのですから」
クスクスと笑うイルゼの声と、少し照れたフェルナンの笑顔。
全く状況の掴めないハノンとエドゥアルドは顔を見合わせた。
「私にとってハノンは命よりも大事な存在なのよ。なにせ私の血を引くただ一人の娘なのだから。フェルナン。この国がどれだけ苦しい立場にいるのか、この目で見ている私には分かっているわ。けれど、ハノンを巻き込むことだけはやめて欲しいの」
「むっ、娘っ。ハノン殿がイルゼの娘だというのですかっ?」
その驚きっぷりに聞いているこちらまでびっくりしてしまった。
そんなに驚かなくても、ハノンとイルゼは似ていると思うのだが……。
「戸籍上は違うけれど、事実上は私の娘なの。可愛いでしょう?」
自慢げにハノンのことを話すイルゼの声に、ハノンは恥ずかしくて俯いた。こんな風にあからさまにハノンを自慢する母のようなイルゼをあまり見たことがない。
「ええ、確かにあなたに似てとても可愛いですね」
その言葉に隣りに座るエドゥアルドの周りから不穏なオールが醸し出されていた。
フェルナンはただ単に社交辞令として返しただけにすぎないのだから、過剰反応は止めて頂きたい。




