第54話
その後ろ姿を見たのは、正直意外だった。
こんなところで、しかもたった一人で。まだ日も暮れ切っていないこんな時間に。
その後ろ姿があまりに淋しそうだったので、ハノンは声をかけずにはいられなかった。
「こんなところでどうなさったんですか? 姿がないと皆さん心配しますよ」
ハノンの声に心底驚いたのか、ヒッという小さな悲鳴を姫は上げた。
「お化けじゃないんだから、そんなに驚かなくても……」
いくら驚いたからと言って、そんな悲鳴を上げられると傷つくというものだ。
「あっ、ごめんなさい」
驚きに立ち上がった彼女は所在なげにしている。おそらく早く立ち去れとでも思っているのだろう。
ハノンはお構いなしに彼女の隣に座り、彼女の手を引いて座らせた。
「アナも」
アナをハノンの右側に座らせると、ずっと思っていたことを口にした。
「そんなに葛藤しているならやめればいいのに」
言葉も出ないのか口をあんぐりと開けて、ハノンを凝視する。
「誰にも分からないとでも?」
「あなた何者っ?」
「何者ってただの一侍女ですよ。というよりもその質問をそっくりそのままお返ししますよ」
あわあわと焦っている。
やはりそうだったか。
ここ何日か姫が日の暮れた暗い庭園の片隅で一人ぼんやりとしているのを実は知っていた。何かに思い煩っていることも。そして、不自然なのは一人でいられるということ。姫なのに、警備が薄い。ないと言っても過言ではない。ハノンは姫でも何でもないというのに一人になることすら許されていないというのに。
「あんたは姫じゃない。そうでしょ? それなのにこのままクライヴ殿下と結婚するつもり?」
こんなに警備が薄いわけがないのだ。一国の姫が守られないわけがないのだ。クライヴ殿下と一緒にいるときは、クライヴ殿下の警備がつくから気付くのが遅れたが、注意して見れば姫の身の回りを警備をしているものはいない。そしてなによりフェルナンの態度が姫を見下している。従者があんな目で姫を見る筈がないのだ。気付かれてないとでも思っているんだろうか。
「フェルナンという男に雇われた?」
まさかバレるなんて思っていなかったんだろう。みるみるうちに顔色が死人のように青くなっていく。
「話してくれないかな?」
顔色の悪い姫になりすました誰か。
もうこうなってはどうしようもないと諦めたのか、話すことを了承した。
場所をエドゥアルドの自室に移すと、テーブルに向かい合った形で座らせた。
ハノン自ら紅茶をいれて、彼女の前に置いた。
「何の薬も入れてないから安心して」
何だか自分で言って聞いたことのある台詞だと思った。そうだ、イルゼの家へ初めて行ったときにイルゼが言った言葉だった。
昔のことを思い出し、不謹慎にも笑みが込み上げた。
不振げにハノンを見る彼女を安心させるように笑顔を作った。
エドゥアルドはまだ仕事から戻っていないが、そろそろ戻って来ていい時間だ。
「アナ。お姫さまを探して騒ぎになっていたら大変だから、ここにいるってフェルナン様に伝えて来てくれないかな? 今夜は私とエド殿下と食事をともにするとも」
「ハノン。私は決してハノンの傍から離れたりいたしません。ドアの外にいる衛兵に頼んでまいます」
「ありがとう、アナ」
そんな会話がなされている時、姫はハノンがいれた紅茶を飲んでお気に召したのか笑顔をこぼしていた。自分がいれた紅茶で少しは緊張を解すことが出来たと思うと誇らしくもある。
アナがドア外の衛兵と言葉を交わし始めるのを見た後、姫を改めて見据えた。
「あなたの名前は?」
「ビビニアです」
名前はいつわらずにそのまま使用していたようだ。
「そう。それで、あなたは姫じゃないなら一体なんなの?」
「私はっ、私は娼館で働いていました。王族でも何でもありません」
娼婦? そんな風には全く見えない。確かに甘えてみせてはいたが、男慣れしているようには見えなかった。それが娼婦の男を落とす技というものなんだろうか。
「あのっ、私は娼婦ではなくて、ただの下働きでしたので男の人を相手にしたことは一度もありません」
なるほど、それなら納得だ。
手慣れたお姐さま方の技を見て来ているのでそれなりに出来てはいたが、まだまだ堂に入っていなかったのはそれが原因か。知識はあれど実践は初めてだったのだ。
「それでそんなあなたがどうして姫としてここにいるのかな?」
衛兵との話を終わらせたアナがハノンの後ろに立った。アナに隣りに座るように促すと、辞退されたがハノンが強い目で訴えると諦めて腰をおろした。
「フェルナン様は私が働いている娼館のお客さまです。ある日、私が外で洗濯をしているとフェルナン様が現れて、割りの良い仕事を頼まれてくれないかと、私のことは身売りしてくれるからその仕事さえ終わればどこで暮らしても私の自由だと。正直あんな仕事もあんなところも大嫌いでしたから、あそこを出られるならなんだってしようと思って受けたんです。まさか、自分が姫のフリをするなんて思いませんでしたけど……」
ハノンが予測していたものと大方合っている。
「ビビニア。フェルナンが何者だかあなたは知っている?」
「いえ、分かりません。王城に住んでいることは確かなようです。どなたかの従者をしているのではないでしょうか」
ビビニアには自分の身分など明かせないということか。
「なんだ、客か?」
エドゥアルドが仕事を終えて帰って来た。ビビニアを見ても大して驚いた様子がないのは、ハノンがビビニアが本当の姫じゃないかもしれないと仄めかしていたからだ。ビビニアがここにいるということは、姫ではなかったとエドゥアルドにはすぐに理解できるはず。
「うん。エド殿下お帰りなさい」
「お前の考えが正しかったんだろう?」
エドゥアルドはハノンを抱き締めると、そう言いながら頬やおでこなどに何度もキスを落とした。
そんな姿をビビニアはただただ驚きの表情で眺めていた。
「そう。ビビニアはフェルナンが連れて来た偽物だった」
「あのっ、私牢屋に入れられるんでしょうか」
ハノンとエドゥアルドが同時にビビニアを見ると、萎縮したのか肩を強張らせた。
「牢屋なんかに入れないよね。ね、エド殿下?」
「お前がそう言うならな」
ハノンの頭をポンポンと叩いた。子供にするようなそんな行為だが、エドゥアルドにされると嬉しくなってしまうのは何とも不思議だ。
「うん。まだ、フェルナンにはバレたってことは言わないで欲しいんだ。あ、そうそう。大事なことを聞き忘れていたよ。フェルナンはあなたにここで何を指示したの?」
「それは、姫となってクライヴ殿下を誘惑して、ハノン様のことを何でもいいから聞き出せと」
「私に様なんて不要だから、ハノンって呼んで。ねぇ、エド殿下。やっぱりフェルナンは知っているんだね? 調べているってことはまだ確信はしていないかもしれないよね?」
エドゥアルドはハノンを持ち上げると椅子に腰かけ、膝の上にハノンを下した。お客が来ているというのに全く気にしていないエドゥアルドに対し、ハノンを含めこの部屋にいたもの全てが頬を赤らめた。そういうことは人がいない所で、というのが全員の共通した意見であっただろう。
「そうかもしれないな。ハノン、あの男にはあまり近付くなよ」
分かっている。ハノンだって近付かないで済むならフェルナンとはお近づきになどなりたくない。けれど、恐らくそんなことでは済まされない事態に陥るのだろう。




