第53話
日に日にピアの頬が痩けていく。
それをまのあたりにしているのに、何も出来ないことに歯痒さを感じていた。
「アナ。このままじゃ、ピア本当に病気になっちゃうよ。この際一度家に帰したほうがいいんじゃないかな?」
あの姫が来てから、クライヴがピアと会うことはほとんどない。イヤ、直接会うことはなかった。姫がクライヴを片時も放そうとしないからだ。遠目からお互いの姿を確認するだけだ。
クライヴはピアのことが気に掛かるようで、ハノンにこっそり様子を聞いてくる。そして、それを聞いてクライヴも心を痛めているようだ。クライヴがピアのことを、あの姫のことをどんな風に考えているのか聞いたことはない。けれど、よりピアのことを考えているような印象を受けた。それはピアが幼いからなのか、それとも……。
「そうですね。あのようにこれ見よがしにされてはピア嬢もお辛いでしょう。ですが、ピア嬢は城を離れないと思いますよ」
ハノンもその意見に賛成だ。ピアはどんなに辛くても帰ったりしないだろう。根性が座っているというか、負けず嫌いなのだ。それにピアの両親が途中で城から帰って来たとなると、どんな仕打ちを施すか分からない。
それにしてもあの姫は甘え上手というのだろうか。あの控えめな感じでクライヴが断れない状況を作っていく。
初めからあの控えめな態度は演技だったのだろうか。
ハノンがシーツを干していると背後に気配を感じ、警戒しながら振り向くと、男が胡散臭い笑顔を携えて立っていた。
あの姫の従者としてこの城に滞在している目の前に立つ男は、ハノンの予想では従者などではないだろう。この男の持つオーラ、喋り方、振る舞い、全て隠しているつもりかもしれないが、隠しきれてなどいない。
「どうかなさいましたか、えっと……」
「フェルナン。アデルドマーノ王国の姫ビビニアの従者をしております、フェルナンと申します。お見知りおきを」
あの姫そんな名前だったのか……。
差し出された右手を反射的に掴みながらそんなことをぼんやりと考えていた。
くすりと頭上から笑い声が聞こえて、ハノンはハッと我に返った。スパイかもしれない相手を前にぼんやりしている場合ではなかったのだ。
教養のないハノンにはアデルドマーノ王国という国がどこにあるのかは定かではないが、ハノンの記憶が確かならば隣国であったはず。
「そのアデルドマーノ王国の従者をなされているフェルナン様が私になにか御用ですか?」
ハノンの言葉遣いも大分板に付いてきたものだと自画自賛したいものだ。目の前の相手を不快にはさせていないにちがいない。
「いえ、ビビニア様がクライヴ殿下に夢中で私は邪魔だと追い出されてしまった次第で……。ぶらりと歩いていましたらあなたが見えたものですから、ハノン嬢」
ぶらりと……。絶対ウソだ。
フェルナンは何かを探しに来たんだろう。ぶらぶらする暇なんかないはずだ。
ハノンの予想ではこの男アデルドマーノ王国から派遣されたスパイか、王族若しくはそのゆかりのもの。
「そうでしたか。私がご案内出来ればいいのですが、生憎仕事中ですので」
アナは、隣で耳をこちらに傾けながらも手はしっかりと動かしている。
不機嫌なのを隠しもせずにシーツを手荒に広げていく。アナがこのフェルナンという男をよく思っていないのは明らかだ。
「ハノン嬢の髪は美しいですね。私どもの国ではそのような色は見たことがありません」
早々に会話を打ち切りたいハノンの遠回しな拒否をフェルナンはものともせずにそう言った。
そもそもフェルナンがたかだか侍女風情の名を知っていることが解せない。
ハノンを黒の魔獣と関連づけて考えているとみていいのではないか。もしくはもう既に知っているか。こちらの出方を見ているのかもしれない。
「それはありがとうございます。この国の貴族の間ではあまり好かれていないものですから、そう言っていただけるのは嬉しいです」
早く行ってくれないか、と心底思っていた。アナもそれについては同意見であろう。時折フェルナンに視線を送っている。その視線はとても鋭いものだった。それを知ってか知らずかフェルナンは絶えず笑顔だ。
「今度、私に町を案内していただけませんか?」
「申し訳ありませんが、他の方をあたっていただけませんか? 恋人がとても敏感な方なので、他の男性と歩くことをよく思わないのです」
「そうですか、それは残念です。お仕事中、お邪魔して申し訳ない。では、失礼します」
頭を下げて大股で歩き去る姿をため息混じりに見送った。
「ハノン。私、あの人嫌いです。あの目がなんだかイヤです。何かを企んでいますよね」
「そうだね……」
ハノンの反応を逐一確認しているような粘着的な視線が付き纏って来て気持ちが悪かった。何かぼろを出さないかと気が気じゃなかった。
「今日、フェルナンって人と話をしたよ」
夜、エドゥアルドとまったりな時間を共にしているときにその時の話を切り出した。初めから最後まで始終難しい顔をしていたエドゥアルドは、終わるまで口を挟むことはなかった。
「あの人は本当に従者なのかな?」
「実は私も兄上たちもアデルドマーノ王国の人間を見たことがないんだ。会合などがあってもあの国の王族は常に仮面をかぶっているんだよ。顔をさらすことを良しとしない。下手をすれば国民ですら王族の顔を知らないかもしれない。だから、あの男が従者であるのかそうでないのかも分からない。だが、やはりただの従者ではないようだな」
エドゥアルドがソファに座り、その膝にハノンを乗せて放そうとはしない。エドゥアルドの胸に背中を預けている状態で、ハノンの真っ赤になっている表情を見られることがないのはいいが、エドゥアルドの息が耳を掠めていく。真面目な話をしているのにそれが気になって気が気じゃなかった。
「どうでもいいけど、エド殿下近いっ」
「いいだろう? こうして一日の疲れを癒しているんだ」
エドゥアルドはハノンの肩に顎を乗せると、長く浅い息を吐いた。
ハノンとてエドゥアルドが疲れているのなら肩を貸すくらい造作もないことであるが、何分顔が近いことと頬を息が掠めていくため心臓が暴れて仕方ないのだ。エドゥアルドはこの状況に安らぎを感じてくれているのかもしれないが、ハノンは落ち着かない。
「……落ち着かない」
「……私もだ」
「えっ」
エドゥアルドがハノンと同じことを感じているなど思ってもみなくて、振り返ってみればエドゥアルドの顔が間近にあってあたふたとする。そんなハノンを小さなキスで大人しくさせてしまう。
「何故驚く? 私がお前といて落ち着けると思っているのか? ほら」
今やエドゥアルドの膝の上で横抱きにされている状態。手を捉えられエドゥアルドの胸に押しつけられた。エドゥアルドの胸は手のひらに振動を感じるほどに活発に動いていた。
「凄いっ」
凄い……けれど、ハノンもまた同じほどに飛び跳ねている。
「お前といる時、私はいつも落ち着かない。だが、それが堪らなく幸せだと感じる。心を乱されて苦しくて辛いと思うこともあるが、それすら心地よいと感じる。私はこの幸せを逃したくない、何があっても。お前を二度と私の腕の中から放したくない。あんな想いはもうたくさんだ。私から離れるな、ハノン」
エドゥアルドは恐れている。
あの誘拐事件があってから、ハノンを失うことを恐れている。
それはハノンも同じこと。ハノンはエドゥアルドの傍を離れるわけにはいかないのだ。
何があっても。