第51話
誰かの視線に気付いて辺りを見回すと、気まずげにたたずんでいる男が目に飛び込んできた。
知らずエドゥアルドの袖をきつく掴んでいた。エドゥアルドはハノンを勇気づけるようにその手に温かい手を重ねた。
「見るつもりはなかったんだが、たまたま通りかかったら……。仲がいいんですね」
オルグレン大公。すっかりと忘れてしまったその表情は清々しいものに見える。穏やかで優しいほんわかとした人好きのする笑顔だ。これが本来のオルグレン大公の素顔なのだろう。
「申し訳ありません、オルグレン卿。お見苦しいところを見せてしまいました」
「いえいえ、私などお気になさらずに。それにしても不思議です」
「どうしましたか?」
ハノンは二人の会話を不思議な思いで聞いていた。
もっと辛いと思っていた。もっと苦しいと、悲しいと思っていた。だが、今、こんなにも穏やかだった。
ハノンの手にエドゥアルドの手が乗せられているからだろうか。
そんなことを考えていると、オルグレン大公の視線がハノンにおりてきた。
「彼女を見ていると不思議と悲しいのです。もっと昔に会ったことがあるような気がします」
「昔の恋人に似ているのではないですか?」
「いいえ、そんな感じとは少し違います。確かに彼女は昔の恋人と似ているかもしれませんが恋人を思い出す時とはまた違った気持なんです。彼女を見ていると、私の一部を失ったような気がするのです。不思議ですね」
ハノンの存在がオルグレン大公の一部だと思ってくれていたということだろうか。イルゼの代わりではなく、ハノンをちゃんと見てくれていたんだろうか。父親として。
「それになんだか胸が締め付けられます。……あ、申し訳ありません。突然変なことをペラペラと。私はこれで失礼します」
オルグレン大公が背中を向けて歩いていく。
エドゥアルドがハノンの肩をぽんと叩いた。見上げるとエドゥアルドが頷いた。ハノンも力強く頷くと遠ざかる背中を追った。
「オルグレン卿っ。待って、待ってくださいっ」
無礼とは分かっているが、腕をつかんで引っ張った。
「これはハノン嬢、どうしましたか?」
「わたしっ、友達になりにきましたっ」
びっくりと目を瞠っているオルグレン大公を強く見た。冗談でこんなことを言い出したとは思われたくない。
「びっくりしました」
「あっ、すみません。突然で」
オルグレン大公はハノンを安心させるように破顔した。決して気分など害されていない、と言いたげに。
「私みたいなオジサンが友達でもいいのかな?」
「もちろんっ」
「変なことを言うけれどね、君を見ていると何か大事なことを思い出しそうになるんだ。私はきっと昔に誰かを酷く傷付けたことがあるんだと思うんだ。どう思い出そうとしても思い出せない。誰かを傷付けたなら償わなければならないのに、何をしたのかも誰を傷付けたのかも、いつのことなのかも分からないんだ。君といれば何かを思い出せるような気もするんだ。私はその子にちゃんと謝っただろうか……。いやぁ、こんな話をしてごめんね」
イルゼがかけた魔法はすぐにとけてしまうだろうか。イヤ、それは大丈夫だと思うが……。
オルグレン大公が言うところの『傷付けた子』というのはハノンのことだろう。オルグレン大公がハノンに申し訳ない気持ちを持ってくれていることが嬉しかった。記憶をなくしていてもオルグレン大公の心の中にハノンの欠けらが残っていることにハノンの心が揺れた。
「私はもうオルグレン卿の友達です。どんな話も聞きますよ」
「それは嬉しいな。私の愚痴を聞いてもらおうかな」
「いいよっ」
思い返せばオルグレン大公とまともに話したことなんてなかった。
これからの新しい関係に希望さえあれ不安などいっさいなかった。
ハノンはオルグレン大公に別れの挨拶をすると元きたほうへと戻った。
ふと顔を上げるとエドゥアルドが先ほどと同じ場所でハノンを心配げに見ていた。
ハノンは駆け出し、エドゥアルドの胸に飛び込んだ。勢いよく飛び込んでもエドゥアルドの体はぐらつくことはない。
「あのねっ、友達になってきた」
「そうか、良かったな」
エドゥアルドのこの優しい低い声は、ハノンだけに向けられるものだと思っていいのだろうか。そう思いたい。イヤ、思おう。
「うん」
「気分のいいところを水を差すようで悪いが、お前に一つ言っておかねばならない」
優しかった柔らかい声とは一変、厳しく堅い声に、エドゥアルドの胸にひっついたまま見上げた。
「何? なんかヤなこと?」
「ああ。兄上のことだ。まあ、兄上だけの問題でもないが」
「兄上ってクライヴ殿下のほう?」
「そうだ。兄上の婚約者候補としてもう一人城に滞在することになった」
「は? だってクライヴ殿下にはもうピアっていう婚約者がいるじゃん。なんで?」
もうすでにピアが婚約者として決まっているはずだ。なぜあとから婚約者候補が表れるんだ。
「この国では一応一夫多妻性をとっている。王が妻を一人しか迎えてないためにみなそれに倣っているが、持とうと思えば妻は何人だって持てる」
「嘘っ。そんなん知らなかったよっ」
世間一般の常識に疎いハノンであるが、この件については何も疑っていなかったからだ。なにしろハノンの知るかぎりではみな一夫一妻だったからだ。だから誰かに聞くこともなくそうだと思い込んでいたのだ。
「陛下もピア嬢だけと考えていたようなんだが……」
「なんかあるの?」
エドゥアルドの戸惑い気味の様子を見ると、何かそこに訳があるのだろう。
「これから来る婚約者候補なんだが、先方の強い要望で、断りづらいというより断れない相手なんだ」
「それってまさか他国の姫だったりするんじゃ……。もしかして、この縁談を受け容れなければ戦争になるみたいな脅しのようなものがあったんじゃ……」
最悪な事態を想定しての発言であり、まさかそんなわけはあるまいと希望を捨てているわけではなかった。だが、
「そういうことだ」
事態は最悪なものだったのだ。
「他国の姫なの? 断ったら戦争なの?」
「ハノン。その国は軍事力に長けている。平和な国である我が国が適うはずもない。今までそんな素振りをしていなかったのに突然の申し入れ。明らかにおかしい」
「ねぇ、エド殿下。もしかして、その国は黒の魔獣がこの国にいると思っているんじゃ……」
最悪なシナリオ。その国はこの国だけじゃなく、黒の魔獣をも手に入れようとしているということ。
ハノンが黒の魔獣だとバレているだろうか。イヤ、それはないだろう。分かっているのなら直接ハノンとの縁談を望むはずだ。待てよ、直接ハノンに縁談話を持っていったら怪しまれるから、クライヴ殿下を利用してスパイを送り込むつもりなのか。なにせハノンは侍女なのだ。侍女に他国からの縁談が来るのはおかしい。
「王城内にスパイがいるのかもしれない。ハノンが魔獣の姿でいたころを見ていたんじゃないかな」
ペットサイズで過ごしていたけれど、やはりハノンが黒の魔獣なんじゃないかと疑っていた人間はいただろう。そういった人間から他国に漏れていたのか。
「スパイって王城に住んでる人じゃないよね?」
ハノンやエドゥアルドの周囲にスパイなどいるわけもないが、なにしろ広い城だ。働いている者も数多くいる。
「そうじゃないことを願うよ」
せっかくの楽しい時間はたちまち問題が山積みの重苦しい時間になってしまった。
どこから手を付ければいいのか、混乱から頭痛をもよおした。