第50話
「私も混ざっていいかな?」
その声に反応して振り返れば、すぐ目の前に足があり、視線を上に向ければエドゥアルドの包み込まれるような笑顔があった。
「エド殿下。もう執務は終わったの?」
思いがけず現れた嬉しい来客に思わず人目も憚らず抱き付いた。
「ああ、終わった。たまには早く終わらせてお前と一緒にいたいと思ってな」
「なに言っちゃってんの、キモいっ」
頬をエドゥアルドの胸に押し付けて悪態を吐く。熱くなった頬を悟られないように。
「ハノン。真っ赤だわ」
触れて欲しくないことをピアはまんまと言ってのけた。
「真っ赤じゃないしっ」
「真っ赤なのか、ハノン?」
顎にエドゥアルドの手が伸びてきて、抵抗虚しく顔を上げられた。
「赤くない」
「赤いな」
「赤くないってば」
「赤いよ」
「しつこいって。バカオトコっ」
「そんな私に惹かれたお前はバカオンナか?」
傍から見れば痴話喧嘩でしかないこんな会話だが、ハノンには真剣なものだ。こんな中身のない会話でもハノンにはコミュニケーションの一つなのだ。
「いいんだよ。もとから私はバカだもん」
「そんなことを言うな。ごめんな、ハノン。お前はバカじゃないよ」
必ず不毛な会話を治めてくれるのはエドゥアルドだ。
「私もごめんね」
そう言えば口争いなどまるでなかったかのように笑顔を見せてくれるのだ。その瞬間の笑顔が堪らなく好きだ。
ハノンもつられて笑顔になる。そうするとエドゥアルドの笑顔がさらに大きさを増すのだ。ハノンがこの笑顔を作っているのだと錯覚しそうになる。
「エドゥアルド殿下。ピア嬢が唖然としています。あまり見せ付けるのはどうかと……」
茫然と二人を見ているピアを見兼ねてビバルが声をかけた。
「ああ、そうだな。すまない」
名残惜しそうにハノンを解放した。ハノンも内心では名残惜しんでいるが決して表には出さない。それをエドゥアルドに悟られるのが悔しいからだ。
「エド殿下もビバルも座って。私がお茶をいれるから」
少々人見知りをするピアは急に人が増えたことに萎縮してしまっている。
「大丈夫だよ、ピア。二人とも優しい人だから」
手を動かしながらもピアに声をかける。
「はい」
弱々しいピアの返事に苦笑する。すぐには無理そうだ。
「ピアは何をしている時が一番好き?」
チラッと目線を上げてから、話題を振ってみた。改めてピアのことを聞いたことがなかったから、いい機会だと思った。この間は町に出て、買い物だなんだと忙しくてゆっくり話も出来なかった。
ピアは気恥ずかしげに頬を赤らめたあと、頭を左右に振った。恐らくクライヴのことでも考えていたのだろう。
「本を読んだり、お花を見たり。つまらないことばかりで」
「えっ、なんで? 全然つまんなくないじゃん。私ももっときちんと本が読めるようになりたいんだけど」
「お前は大分出来るようになってる。文字も書けるようになってきているし。ハノンは頑張ってるよ」
「そうかな?」
ああ、とエドゥアルドがハノンの頭を撫でながらうなずいた。
ピアはハノンを不思議な顔で見ていた。
そうだった。貴族に生まれた人間にとって文字の読み書きは出来て当たり前のことなのだ。王城に住んでいるのに出来ないなんて、不思議でならないのだろう。出来て当たり前の世界なのだ。
「わけあって、数年前まで言葉を知らなかったんだ」
「え?」
「喋れなかったの。全く」
ピアにとってはあり得ない事実であるはずだ。
「そんなことって」
「世の中には色んなことがあるんだよ。まさかって思えることが。私にとっては常識が、非常識だったことがあるんだ」
よく分からなかったのか、ピアは首をかしげている。なんか変な方向に話が進んでしまったので、軌道修正が必要なようだ。
「クライヴ殿下とどんなところに行ったの?」
「城の中を一通り案内しただけだよ」
クライヴが答えた。
「そういえば私も改めて城を見て歩いたことはないな……。今度私も案内して貰おうかな。クライヴ殿下の体調の良い時に。」
「よし、ハノン。私が案内してやろう。今すぐ行くぞ。兄上とピア嬢はごゆっくり」
ハノンとクライヴの会話を遮り、突然そんなことを言い出したエドゥアルドはハノンの手を取ると、立ち上がって強引にハノンを引いていく。
意味も分からないままエドゥアルドに引かれるままになっていたハノンは、取り敢えず庭園に残る二人に手を振った。
「どうしたの、突然」
城の中に入ったところで速度を緩めたエドゥアルドにうかがいをたてる。
なにかあったんだろうか。
少しだけ不機嫌な気もする。
「エド殿下?」
ぴたりと足を止めたエドゥアルドの前に回り込み、覗き込んだ。
エドゥアルドは空いたほうの手で顔を覆っていた。自分を落ち着かせるように大きく息を吐いた。
「すまない。なんだこれは。全く私らしくない。こんな気持ちを抱くのは馬鹿げている。兄上がお前に好意を持っていると聞いたあの日から、お前と兄上が話しているのを見ると妙な気持ちになる」
「ヤキモチ……妬いてくれたんだ?」
クスッと笑ってそう言った。
「ヤキモチ?」
「うん。違った?」
「イヤ、そうだな。これは嫉妬だ。お前が他の男と話しているのを見ているとどうにも嫌な気持ちになる」
エドゥアルドは顔を隠していた手を下におろすと、ハノンを見つめた。自分が心底情けないのか、締まりのない表情を浮かべている。その表情がハノンには愛おしくて仕方がない。
「あのね、嬉しいよ。そんな風に思ってくれて」
ハノンもヤキモチを妬いている、常に。これから現われるであろうエドゥアルドの未来の婚約者に。名前も顔も知らない会ったこともない誰かにヤキモチを妬いているのだ。馬鹿なことだとは思っているのだが、考えずにはいられないのだ。
「そ、そうか? とにかく私以外の男と楽しそうにしている姿を見るのは気に入らない」
「嬉しいけど、クライヴ殿下は大丈夫だよ?」
ハノンにだって経験があるからそれがどれだけ無理なことか知っている。大丈夫なのは知っているのに、気持ちは思い通りにはいってくれないのだ。
「分かっているさ」
投げやりに溜息を吐くエドゥアルドにハノンは失礼だと思ったが笑ってしまう。嬉しくて。
ハノンはエドゥアルドの胸ぐらを掴んで引き寄せると、その唇を塞いだ。
不器用で乱暴なキスだった。
「私がキスしたいのも、キスしてほしいのもエド殿下だけなんだよ。私を信じてよ。エド殿下だけだもん。エド殿下が好き……」
エドゥアルドはハノンを強く抱き締めたあと、乱暴であるのに拘らずハノンがしたのとは比べられないほど優しいキスをした。
「お前を大事にしたくて我慢していたのに……。お前が悪いんだぞ?これ以上抑える自信がない」
そうか。エドゥアルドはハノンのことを考えて、何もしなかったんだ。あのキス以来、何もしようとはしないエドゥアルドに不安を感じていた。
信じていなかったのはハノンの方じゃないか。
エドゥアルドに向けた自分の言葉を恥じた。信じなければならないのはハノンの方なのだから。傷つくのが怖くていつも逃げ道を作っていた。エドゥアルドはハノンに結婚をしたいと言ってくれているのに、その気持を信じずに見えない誰かに嫉妬をしていたのはハノンなのだ。
信じよう。エドゥアルドを。