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第5話

「放せ、このチカンオトコっ」


 早朝からエドゥアルドの部屋から聞こえた怒声に、ハノンの存在を知らない家臣たちは大きな勘違いをしていた。

 エドゥアルドが女性を部屋に引き入れ、良からぬ行為に出た。というものだ。

 美しい顔立ちで仕事も有能、そして次期国王と期待されるエドゥアルドであったが、女性の噂がとんとなかった。縁談は数多く持ち上がるものの、それを全て一蹴していた。だからこそ、その言葉が聞き捨てならないものであっても、家臣たちは浮き足立ったのだ。


「なんだ。耳元で叫ぶな、うるさい。私はまだ眠いんだ」

 眠そうな目を一応開けてはいるが、今にも閉じてしまいそうなエドゥアルドを見て、自分の置かれている状況をゆっくりと思い出した。

 ああ、私は魔獣になってしまったんだった……。

 昨日のことは思い出したくない。けれど、あまりに衝撃的な出来事が続いたため、忘れることは出来ない。

 エドゥアルドの腕がのびてきて、ハノンの体をベッドに引き戻す。

 昨日の夜、抵抗するハノンを、エドゥアルドは無理矢理ベッドに引き摺り込んだ。

 王子にしてみれば、ペットを同じベッドで寝させるだけの行為だが、ハノンはそうはいかない。男の人とベッドを共にしたことなどないのだ。ハノンにとっては、それはそれはおおごとだったのだ。

 しかし、抵抗はむなしく。暴れ疲れたハノンは、結局エドゥアルドに抱かれながら眠りについたのだった。

 エドゥアルドにハノンの今の心境を話したところで、理解してくれないだろう。エドゥアルドはハノンが本当は人間だということを知らないのだから。察してくれというほうが、無理なのかもしれない。

 間近に見える瞳を閉じた美しい寝顔に爪でもたててやろうかとも思ったが、それも諦めて再び瞳を閉じた。


 再び目を覚ましたとき、隣にはエドゥアルドの姿はなく、ホッと胸を撫で下ろした。

 ベッドを降り、寝室を出ると、アナが無表情で出迎えてくれた。

「おはよう」

 おそるおそる声をかけてみる。アナは表情を表に表さないので、感情を読み取りにくい。

 ハノンをよく思っているのか、よく思っていないのか、それとも無関心なのか。その表情からでは探れなかった。

「おはよう。ハノン」

 ほんの少しだけ右の口元を引き上げた。それがアナなりの笑顔なのだろう。

 ハノンがニカッと笑って見せると、アナが一瞬驚いた顔を見せた後、顔を背けた。

 その行為に、ハノンは少なからずショックを受けた。

 やはり私の笑顔は恐ろしいものなのだ。

 性急に笑顔の研究が必要だ。

「ハノンはどんな食事がお好みでしょう? 一応、我々と同じものを用意したのですが。何か要望があれば、遠慮なく言って下さい」

 背けた顔をハノンに戻し、アナが言う。

「アナ。私にそんなに気を遣わなくていいんだよ。残飯で構わないんだからさ。あ、でも生肉は食べないよ」

 ハノンが姿を変えられた魔獣の牙は鋭いだけに、生肉をがっつりと食してしまいそうだ。そんな勘違いをされるのだけは勘弁してもらいたい。生肉なんか食べてしまったら、お腹を壊してしまうに違いない。

「分かりました」

「エド殿下は?」

「執務をしてらっしゃいます。ハノンが起きたら、何か食べさせて、連れてくるように言われています」

 アナの言動や振る舞いはやはり不自然だ。

 魔獣相手にそんなに低姿勢に出るなんて有り得ない。昨日はそんなこともあるかと思ったが、一日たって冷静になってみると、その不自然さが浮き彫りになっていく。

 ここまでハノンに対して、下手に出るのは何故か。

「エド殿下のところには一人で行ける。匂いを辿ればいいから」

 魔獣になったハノンにとって、エドゥアルドを捜し出すことは容易だ。エドゥアルドの匂いがまだ鼻に残っているので、その匂いが強くなる方へ向かえばいいのだから。

 昨夜共に寝たおかげで、エドゥアルドの匂いは強く残っている。

「いえ、私がご案内します」

「何か、私を一人でいさせちゃならない理由でもあんの?」

 アナがギクリと肩を強張らせ、視線を逸らした。

 それらの一つ一つが何かがある証拠だ。

 ハノンがアナをじっと見つめると、諦めたように口を開いた。

「実は、この国の言い伝えが関係しているんですが……」

「ねぇ、その話し長くなる? 座って話そう」

 ハノンはソファの上に飛び乗った。

 アナも戸惑いを見せてはいたが、ハノンが落ち着いた向かいのソファに腰を下ろした。

「我が国には、黒の魔獣の言い伝えがあります。魔獣の毛が黒というのは別段珍しくもないのですが、ハノンのような純粋な黒というのは珍しいんです。必ずどこかに白や茶といった色が混じるものですから。その昔、真っ黒な毛色をした魔獣がいました。その魔獣の魔力は凄まじく、その力で世界を滅亡させることも容易でした。各国の国王がこぞって魔獣と主従契約を結びたがった。魔獣さえ手中におさまればどんな敵も怖くないですからね。そう思うのは当然です。黒の魔獣には、莫大な魔力ともう一つ、人の心の芯を読み取る力を持っていました。黒の魔獣が主にと選んだのは、我が国の国王でした。国王は、黒の魔獣を巡って乱れた国交を治め、争いのない世界を作りたかった。その熱意に打たれたのです。黒の魔獣と主従契約を結んだ国王は、この国ならず他国までをも平和へと導いた。我が国では、いえそれは全世界で言えることですが、黒の魔獣は平和を導いた神聖なるものなのです。黒の魔獣が生き絶えてから、その姿を見たものはいないことから、黒の魔獣を神と崇めたてる国さえあるほどです」

 皮肉なものだ。不吉なものと忌み嫌われていたハノンが、今度は神と崇めたてられる存在に変えられた。恐らく魔女はそれを知った上で、こんな暴挙に出たのだろう。

「残念だけど、私は黒の魔獣ではないよ」

「たとえそうだとしても、そうは思わない人間はいます。今の姿ならば、ペットと思われるでしょうが、魔力を感じ取ることが出来る人間を騙すことは出来ません。私も魔術を学んでいたので、ハノンの魔力は感じ取ることが出来ます。私ですら感じるのですから……」

 アナが言わんとしていることは理解できる。

 ハノンが黒の魔獣であると分かれば、良くないことを考える人間はいるものだ。

「でも、私は既にエド殿下と主従契約を結んでいるんだから、別に問題ないじゃない?」

「主従契約は、どちらかの命が続くまで継続されます。もし、殿下が命を落とせば……。それを狙う人間も出てくるでしょう。ハノンの正体がバレたなら、それは同時に殿下の命も危険にさらされるということです」

 困った事態になったものだ。いくらハノンが黒毛だといったって、その言い伝えの黒の魔獣ではないのだ。ハノンにそんな力があるわけがない。ハノンは人間なのだから。

「アナになら分かるんでしょう? 私にはそんな魔力はないって。黒の魔獣ではないんだって」

「ご自分で分からないのですか? ハノンの魔力は、凄まじいものがあります。私は黒の魔獣の再来だと思います」

 恐ろしいことに、あの魔女はハノンに大きな魔力までも与えてしまったのだ。

 こんなんじゃ愛だなんだと言っている場合じゃない。イヤ、こんな時だからこそ、早いところ呪いを解かなければならないのではないか。

 己の置かれた状況があまりに重く、ハノンの肩にどっしりと乗っかっていた。


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