第46話
「私はハノンの友達だと思っていたけれど、それは独り善がりなものだったんだね?」
久しぶりも久しぶりにクライヴの部屋を訪ねると、目線を合わせようともせずにそう言った。
「あのね、これでも色々あったんだよっ。別にクライヴ殿下を蔑ろにしたつもりはないんだけど……、本当に本当にごめんね。ご無沙汰しちゃって」
ハノンが魔獣から人の姿に戻って王城に戻ったあと、エドゥアルドと共にクライヴの部屋を訪ねたのだが、おり悪くクライヴは休んでいるところだった。仕方がないので、従者に言伝だけお願いしてその日は退却したのだが、エドゥアルドの執務が忙しくなり(一人でクライヴのところに行くことを禁じられていた)行けず、そんなおりハノンが誘拐事件に巻き込まれてしまったため、なんだかんだとクライヴに会えず仕舞いだったのだ。
「エドゥアルドが一人で来てはダメと言っているのによく来れたね?」
「だってエド殿下の言うこと聞いてたらいつまでたっても会えないでしょ? アナさえ一緒ならいいって言ってくれたから、これからはもっと会いに来るからね」
「そっかアナは私の監視役なんだね? 私も信頼ないんだな」
壁を背にしてたっているアナを一瞥して拗ねたように言った。
「信用はしてると思うよ、だけど、ちょっとね」
先日起こったオルグレン大公によるハノン誘拐事件は、ルシアーノやレイラなど限られた一部の人間しか知らない。クライヴもルシアーノから聞いて知っているのだろうか。
「ハノンが誘拐されたことは知っているよ。兄上に聞いたんだ。犯人には逃げられたんでしょ? 気を付けないとまた狙われてしまうよ」
ルシアーノは犯人がオルグレン大公であることは伏せていてくれたようだ。ルシアーノはオルグレン大公に大分憤慨していたようだが、その張本人が全く記憶がないのだから仕方がない。「今回はハノンに免じて許してやる」などとこぼしていた。ハノンがすがる目で見ているのに気付いたためだろう。
「大丈夫。アナと離れないようにするから。ねぇ、クライヴ殿下。もう外に出てもいいんでしょ? 散歩にいこうよ」
「そうだね。行こうか」
もうすっかり顔色の良くなったクライヴに昔の儚さはない。けれど、本来の明るさを取り戻したクライヴがとても楽しそうなので、ハノンも見ていて嬉しくなった。死んだようだった感情が豊かになって、拗ねたり怒ったり笑ったり悲しんだり驚いたりと忙しい。
今日も暖かい風が肌を撫でていく。城の人たちは出不精な人が多いのか、庭園の中で誰かに会ったことはない。もしかしたら、ハノンが庭園を歩いていることが多いから、会わないように避けられているんだろうか。そうだとしたら、散歩を楽しみにしている誰かの邪魔をしてしまっているのかもしれない。
ハノンはやはり異質な子。チラチラとこちらを窺うものの話し掛けてこようとはしない。ハノンから声を掛ければいいのだろうが、避けられたらと考えると、怯んでしまう。
結局、身近な人しかハノンが声をかけられる人はいない。
「ハノン。実は私は結婚することになりそうなんだ」
「えっ? クライヴ殿下、いつの間にそんな相手が出来たの?」
「違うよ。兄上が決めた相手なんだ。まだ会ったことはないんだよ」
決められた婚約者。顔も見たこともない婚約者。
「そんなどうして?」
「本当はもうとっくに結婚していてもいいとこなんだけど、私の体が弱かったから様子を見ていたんだよ。ほら、結婚してすぐに死んでしまったら申し訳がたたないからね」
「そんな縁起でもないこと言わないでっ」
これじゃ健康にならなければ良かったって感じじゃないか。
「私の婚約者が明日、ここに来ることになっているんだ。初顔合わせのためにね。可愛い方だと聞いている。どうせなら彼女を好きになれればいいんだけどね」
ハノンがクライヴに今どんな気持ちでいるかなんて聞けるわけもなかった。
想像したって、分かる訳もない。
「私祈るよっ。クライヴ殿下の婚約者がいい人でありますようにって」
「ありがとう、ハノン」
ハノンも今はエドゥアルドの恋人でいられるが、そのうちエドゥアルドにも彼に相応しい婚約者が現れるのだろう。
エドゥアルドはずっと傍にいてくれると言ってくれるが、それを本当には信じていない。
イルゼもこんな想いを抱えながらオルグレン大公とお付き合いしていたのだろうか。
クライヴの婚約者が城にやってきたのは、腹時計がそろそろなり始めるかというお昼前のことだった。
護衛と侍女に守られて姿を現したその少女はハノンよりも幼く見えた。まだまだ幼子に毛が生えたような小さな女の子だった。
ちょうど外で洗濯物をしていたハノンとアナは、その姿に驚き、仕事の手が止まった。
「あれがクライヴ殿下の? あれじゃ子供じゃない。いくらなんでも殿下がお可愛そう。まさか子守をしなけりゃならないとはね」
侍女仲間の正直すぎる感想に頷きたくはないが、心の中では同じ意見だった。
いくらなんでも年が離れすぎている。
「アナ。何かの間違いじゃないかな?」
「そう思いたいですが、年の離れた婚姻というのはさほど珍しくはないのです」
クライヴとあの少女は恐らく十以上も離れている。大人になってからの十は大したことはないが、この年代の十はあまりにも遠い。実感としては二十ばかり離れていると感じるのではないか。
「そんな」
クライヴのことも気になるが、あの小さな少女のことも気に掛かる。全くなじみのない城で暮らさなければならず、婚約者は自分よりもうんと歳の離れた大人だ。怖くて怖くて仕方ないんじゃないだろうか。それなのに、ここから見る小さな少女はとても凛としている。幼子と言っては失礼に当たるほどに毅然とした態度に胸が痛くなる。
「まだ、親元を離れるには早過ぎるように思えますね」
「ねぇ、王族との結婚ってこんなに幼い子でもあるの?」
「確かにあの子は幼すぎるような気がしますね。けれど、あの子の親はそれを望んでいるんでしょう。権力のために」
クライヴ殿下の結婚相手は他国の姫か国内の有力貴族の娘と決められている。今は他国と条約を結ぶ予定もないので、他国の姫を迎える必要もなく、有力貴族の娘が婚約者になるのが妥当だ。もしも、オルグレン大公に娘がいたらその娘がクライヴ殿下の婚約者となっていた。けれど残念ながらオルグレン大公には娘がいないので、あの子におはちが回って来た。
アナの言葉のあと、侍女仲間が嬉々として教えてくれた内容に動悸が早くなる。要するにハノンのせいであの子は、クライヴと結婚しなければならなくなってしまったということではないか。
「でも、分からないじゃない。クライヴ殿下はあんなにお美しいんですもの。あの子だって殿下とご結婚するのを楽しみにしているかもしれないわよ」
「それもそうね。殿下は優しくて素敵ですもの」
そんな風に納得した侍女仲間たちは洗い終えた洗濯物を抱えて去っていった。
「ねぇ、アナ。私のせいであの子はしたくもない結婚をしなければならないの?」
「したくないと思っているかどうかは分かりません。侍女達が言うようにあの子はクライヴ殿下が大好きなのかもしれませんよ」
本当にそうだろうか。そうであってくれればどんなにいいか。
ハノンがオルグレン大公の娘だということはオルグレン大公ですら知らない事実。明るみに出ることはない。けれど、ハノンにとっては事実なのだ。その事実が重くのしかかる。