第45話
「やっぱりハノンの魔獣の姿は美しいですね」
大きなウサギの顔を挟んだ向こう側からアナの声が聞こえた。
「そう? ……ありがとう」
魔獣の背にアナを乗せ魔女が住む森までやって来た。例のごとく森に入った途端に人の姿に戻ったのだ。
精霊が住まう場所では、本来の姿に戻されてしまうのは、呪いが解けた今も変わらないようだ。
魔女が寄越した大ウサギの肩に乗って、以前来た時と同じ道を進んでいく。以前と違うのは心境だろうか。あの時は、魔女がこの上なくイヤな人だと思っていた。
魔女の家まで運んでくれた大ウサギに別れを告げ、魔女の家のドアを叩こうと腕を振り上げた拍子に、ドアが一人でに開いた。
「いらっしゃい、ハノン」
出番を失った腕をゆっくりと下ろすと気を取り直して部屋の中に足を踏み入れた。
ソファに腰掛け本を読んでいた魔女は、ぱたんと閉じるとこちらに顔を向けた。その顔にこの前のような悲しみは表れてはいなかった。
「大丈夫?」と聞くのは容易いが、そう聞くことで魔女の表情が暗くなるのを考えると躊躇してしまう。
「さあ、お茶の時間にしましょう」
「今日は私が入れる」
魔女の脇から紅茶セットを横取りする。
今日はハノンが魔女のためにおいしい紅茶を入れてあげたい。ハノンに紅茶のおいしい入れ方を教えてくれたのは魔女だ。
ポイントは飲む人を癒したいと願いながら入れること。
だからハノンは、精一杯の気持ちを込めながら紅茶を入れた。
「どうぞ」
「ありがとう、ハノン」
カップを口に運ぶ魔女の動作を食い入るように見つめた。ハノンの心情は、あたかも試験の結果を待つように緊張していた。
「美味しいわ」
ハノンの心内を知っているかのように微笑んだ魔女を見て、ホッと一息吐いた。
「フフッ。そんなに心配しなくても私は大丈夫なのよ? 心配して来てくれたのでしょ?」
「別にそんなつもりじゃないけど……」
「そう?」
見透かされているのは明確で、今さら隠しても仕方がないような気もするんだけど。
「ごめんなさいね、ハノン。私はハノンに辛い思いばかりさせてしまったわ。私の判断が誤りだったのね」
「私のことはいいんだよ。これからいっぱい幸せになるつもりなんだからさ」
それがハノンの本心だった。ハノンはこの先、エドゥアルドと一緒に幸せになるのだから。
「そうならいいのだけど。……ハノン、遠慮しないで聞いていいのよ? あなたには聞く権利があるんだから」
聞きたいことはたくさんあった。けれど、先日の魔女が受けた傷を考えると容易には聞けなかったのだ。
「私が一番に聞きたいのは、魔女サンの名前。今までずっと聞きそびれていたから」
「そういえばそうね。みんな私のことは魔女としか呼ばないから、うっかり自分でも忘れてしまいそうだった。私の名前はね、イルゼよ」
「イルゼさんと呼んでもいい?」
「どうぞ」
お母様と呼ぶのは今さら恥ずかしく、チチェスター夫人とも被ってしまうのだ。魔女を名前で呼ぶのは、恥ずかしいが新鮮でもあった。
「イルゼさん。あのさ、オルグレン卿のことを聞かせてほしい。もうこの先二度と聞かないからっ」
「いいわよ。私が彼と出会った頃の話がいいかしら?」
ハノンにうかがいをたてるイルゼは、楽しそうにも見える。
「私がまだ十七の頃、彼は二十だった。始めて会ったのは城の廊下だった。彼と彼のお父様が歩いているところに出くわしたのが初めての出会いよ。お父様とは面識があったから、その時に紹介されたの。挨拶を交わしただけだった」
「第一印象はどんな感じだった?」
イルゼの表情は柔らかで、愛おしいものを思い出すように大切に言葉にしていく。
「素敵な人だなって思ったわ。笑顔が優しくて、礼儀正しくて、希望に満ちあふれているようだった。その時は知らなかったけど、彼は既に王城内の女性に騒がれていたのよ。身分は高いし、顔はいいし、優しげで紳士的。私はね、正直素敵なんだけど、あまりに完璧すぎて嫌だなって思った。私は少しくらい欠点がある人の方が好きなのよ」
オルグレン大公は確かに男前だ。若い頃には大層騒がれただろうと思われる。もちろん、今でも年を重ねた分の魅力が合わさって女性を惹き付けるには十分であるが。
「私が次に彼に会ったのは、王城内の庭園だったわ。一人で庭園を歩くのが大好きだったから、時間があれば行っていたの。いつものように庭園を歩いていたら、芝生の上に膝を抱えて頭を伏せて座っている人を見かけた。貴族で芝生に直接腰をかける人なんて見たことがなかったからびっくりして、もしかして具合でも悪いんじゃないかって声をかけたの。それはもちろん彼だったんだけど、具合が悪かったんじゃなくて、落ち込んでいたのよ」
その日のオルグレン大公を思い出したのか、クスクスと少女のようにイルゼは笑った。
「急に話し掛けられて驚いた彼は、泣きそうな顔のまま私を見上げた。そんなだらしのない顔を見せてしまったことにすぐに狼狽していたようだけど……。なんだかその顔が可愛いって思っちゃったのよね。彼は偉大な父に早く追い付きたくて懸命に頑張っていた。けれどやる気だけが空回りしてしまっていた。自分の腑甲斐なさに落ち込んでいたのよ」
若かりし頃の情けのないオルグレン大公にイルゼは好感を抱いてしまった。
イルゼらしいといえばそうなのだが、まさか情けない姿に惹かれていたとはオルグレン大公は露ほどにも思うまい。
「そこで彼の愚痴や悩みを聞いてあげるのがいつの間にか日課になっていてね。私たちがお互いに意識をしだすのはとても自然なことだった。でも、そこからが大変だったの。あの頃の私も彼も奥手だったから好きという言葉がなかなか言えなかったのよ」
初々しい二人の姿を思い浮かべると、ハノンまで口元がゆるんでしまう。その頃の二人にはまさか将来こんな事態になっているとは思ってもいなかっただろう。
「好きだと彼が言ってくれたのは、お互いに意識をしだしてから半年以上たってからだった。彼との身分の違いは分かっていたし、将来彼が違う誰かと結婚することも分かっていた。だけど、それでも良かった。傷ついても捨てられてもいい。ただ今だけでも、傍にいられれば良かったのよ。それほどに私は彼が好きだった」
そんな感じかな、と微笑むイルゼに悲しみの色はなかったけれど、それが逆に悲しみを誘っていた。
きっとイルゼは、いまでもなおオルグレン大公のことを好きなんだと思う。言葉で出しては言わないけれど、ハノン自身が人を好きになるということを知ってしまった今、そう思えてならないのだ。
生涯、オルグレン大公だけを想って生きていくのかもしれない。
一人ぼっちのイルゼは、本当に幸せなんだろうか。イルゼがオルグレン大公の記憶を消したことで、オルグレン大公のこれからは幸せへと向かうかもしれない。けれど、イルゼはどうなるんだろう。想い出だけを胸に生きていくというのか。
「あなたの考えていることなんてお見通しよ。私が不幸せになるんじゃないかって思っているんでしょ? でも、それは違うわ。私にはあなたがいるし、それに私はもう恋はしないなんて思っていないもの」
それは、ハノンを励ますだけの詭弁かもしれない。それでも、イルゼの笑顔はどこまでも美しく、澄んで見えた。