第44話
魔女はすくりと立ち上がるとオルグレン大公の前に立ちはだかった。
「あなたには幸せにしなければならない奥方がいるでしょ? 私のことはもう忘れるの」
「無理だっ。私は君のことしか愛せない。君を得ることが出来るならなんだってする。身分を捨てても構わないんだ」
オルグレン大公の必死な訴えを魔女がどんな表情で受けとめているのか、ベッドの上からでは見て取れない。
「私はあなたを愛していました。誰よりもあなたが大切でした。けれど、今のあなたはあの頃のあなたじゃない。それが私には悲しい。出来れば自らの力で私という過去の想い出を清算して欲しかった。仕方ないわね。私とハノンの記憶をあなたの中から消します。ハノン、あなたはそれでもいいかしら?」
オルグレン大公の記憶からハノンがいなくなれば、ハノンが娘だという事実も消える。その事実はとても悲しいことだけれど、オルグレン大公の心に平穏が訪れるならば、それもありだろう。
「私は大丈夫。でも、魔女サンが辛いんじゃ?」
「私にはハノン、あなたがいるもの」
魔女の笑顔は美しかった。憂を含むその表情には、どんな言葉もかけられなかった。
「嫌だっ。私は君を忘れたりしない。お願いだっ。私の大切な記憶を――」
言葉を奪うように魔女はオルグレン大公の唇を塞いだ。
「私の愛した人。さようなら」
魔女はオルグレン大公の顔の前に手をかざしそう言った。
オルグレン大公の額から仄かに赤い球体が引き出され、魔女の手の中に吸い込まれていった。あの赤い球体がハノンや魔女との記憶なのだ。
魔女の涙がキラリと頬を伝ったのが見えた。
「オルグレン卿。オルグレン卿。大丈夫ですか?」
魔女がさりげなく濡れた頬を拭ったあと、オルグレン大公に話し掛けた。
その声が少し震えている気がした。
「ああ、これは魔女殿。はて、私はなぜここにいたんだったか。エドゥアルド殿下までいらっしゃいましたか。ところでそちらが噂の少女ですか?」
「あの、はじめまして。ハノン・チチェスターです」
オルグレン大公がハノンに向けた笑顔は、今までのものとは明らかに違っていた。人の好さそうな爽やかな笑顔だった。
ハノンのことも魔女のことも忘れてしまったのだ。
「殿下。噂に違わぬ美しさですね。お羨ましい」
「そうだろう?」
「ああ、いけない。そろそろ私は家に戻らなければなりませんので」
オルグレン大公は頭を下げて爽やかに出ていってしまった。
「ハノン。私は関係者の記憶を消してこなければ。殿下、私はこれで失礼します」
魔女の笑顔はいつもと変わりないように見えた。けれど、その心情を思うとその笑顔が痛ましく映った。
「魔女サンっ。また、遊びに行ってもいい?」
「もちろん」
魔女は振り返らなかった。短い返答。それしか言えなかったんだろう。それ以上何か口にしてしまえば、おそらく涙が零れてしまうから。
魔女は一人で泣くのだろう。一人にならなければ泣けないのだろう。あの森の中できっと魔女は、涙が枯れるまで泣くのだ。
会って間もないオルグレン大公に忘れられたことよりも、一人でしか泣けない魔女のことを考えるほうが悲しい。
「寂しいか?」
エドゥアルドに問い掛けられ、ハノンは頭を振った。
寂しいと言えば寂しいのかもしれない。誰かの記憶から自分の記憶がまるっと消えるのだから。相手がどんな人でもそれは寂しいことなんだろう。けれど、ハノンは魔女のことが心配で自分のことを落ち着いて考えられなかった。あとになって寂しい気持ちが溢れてくるかもしれない。
「今は大丈夫。魔女サンの方が心配だよ」
「魔女の身勝手な行いに怒りは感じないのか? お前は魔女に振り回されてばかりだろう」
確かにエドゥアルドの言うとおりなのだ。
魔女はハノンをオルグレン夫人のお腹の中に移し、それが原因で閉じ込められたり、罵られたりした。
オルグレン邸を出て、チチェスター家にいる間は平穏だったけれど、城に上がった矢先に魔獣に変えられることとなった。
こうして改めて考えてみれば、普通じゃない人生を送ってきたのだと、しみじみと感じる。
「不思議なんだけどさ、そういう感情が全く沸き上がってこないんだよね。血が繋がってるからかな? 何でも許せちゃう気がするんだ」
オルグレン大公に対してもそうだ。酷いことをされてきたのに、怒りは感じない。
「そうか。ハノン、後悔していないか? 実の両親について知ったことを」
「ううん。全然。自分のことが分からなくてモヤモヤしていたから、すっきりした。あっ、エド殿下。助けてくれて、ありがとう」
「そうか」
ハノンはエドゥアルドが頬を染めたのを見過ごさなかった。
クスクス笑うと拗ねたように唇を尖らせている。
当たり前の日常と思っていた二人の日々が突然引き離されたことで、より大切なものなのだと気付いた。
「部屋に戻るぞ」
ハノンが立ち上がろうとすると、エドゥアルドに抱き掬われてしまった。
「いいよ。歩けるからっ」
「恥ずかしいのか? ハノン」
クッと笑うエドゥアルドが先ほどの仕返しに出たのに気付くと、負けてなるものかという気分になってくる。
「全然っ」
そう言ってエドゥアルドの首にがっしりと抱きついてやった。
チラッとエドゥアルドを覗き見れば、真っかっかになっていた。
その日ハノンはエドゥアルドの自室に戻ると、まだ薬が完全に抜けていなかったのか、すぐに眠りについた。
ハノンが目を覚ましたのは、次の日の昼を大幅にすぎた、夕方と言ってもいいくらいの時間だった。
エドゥアルドはなかなかハノンが目を覚まさないものだから、午後の執務をさぼってハノンが目覚めるのを枕元で待っていた。
再び医師がハノンを診察したが、異常は見られないと帰っていった。
「エド殿下。明日、魔女サンのところに行って来てもいい?」
「体は大丈夫なのか?」
「全然平気だって。思いっきり寝たかんね。先生も異常は見られないって言ってたでしょ?」
心配性のエドゥアルドは渋い顔をして考え込んでいた。
「アナを同行させるならいい」
「アナと一緒なら瞬間移動は出来ないな。前みたいに魔獣の姿で行こうかな」
「お前、魔獣の姿に戻れるのか?」
エドゥアルドは驚いたのか甲高い声を上げて、ハノンをも驚かせた。
「魔獣の姿にはいつでも戻れるんだけど、言ってなかったっけ?」
「そんなこと言ってなかったぞ」
「ごめんごめん。私も魔女サンも魔獣の姿にはいつでも戻れるんだ。だけど、あんまり無用心に魔獣の姿になると、厄介ごとに巻き込まれるか分かんないから。だから、めったに戻んないよ」
いくら平和な国だと言っても、絶対安全だとは言えないんだから。
「そうか。とにかく、十分気を付けろよ」
「うん」
笑顔を向けると、エドゥアルドが真っ直ぐにハノンを見つめた。
「ハノン。手、出してもいいか?」
「は?」
「キス、したい」
「ちょっ。なに急に変なこと言ってんのっ。すけべっ」
「ああ、私はすけべでいいよ。好きな女を前にしたら、男ならみんなすけべだ」
堂々と宣言したエドゥアルドは、ハノンの返事を待たずに唇を重ねた。
エドゥアルドの温かい唇の感触が、ハノンの胸に刻み付けられた。
ハノンの生涯忘れることのない初めてのキス。