第42話
「ハノン。とにかくここから出よう。な?」
エドゥアルドの手がハノンの頭に乗せられていた。その手が懐かしくて、ずっと放してほしくなかった。
「ハノン? 聞いているのか?」
「殿下。ハノンにこれを」
ハノンが安心するアナの声が耳に入ってきた。
「アナ?」
「ハノン。無事で良かった。本当に申し訳ありませんでした。どんな罰もお受け致します」
「……エド殿下」
エドゥアルドの服を強く掴んで、おねだりするように瞳を覗き込んだ。
「そんな目をしなくても大丈夫だ。アナ、お前に罰としてハノンの護衛として今まで以上に精進することを命ずる」
「そんなっ。それでは罰になっておりません」
「これは決定だっ」
エドゥアルドがいつになく厳しい声をあげる。
「はっ。ありがとうございます。命を懸けてハノンをお守りいたします」
反射的に返事するアナを見て、ホッと息をついた。ただ、ハノンのために命など懸けてくれなくてもよいのだと、心の中で呟いた。
エドゥアルドがハノンの肩にアナが持って来てくれたガウンをかけてくれた。
「さあ、行こう」
エドゥアルドに肩を抱かれ部屋の外に出た。部屋の外には、また大きな部屋があって、そこにはテーブルが丸く並んでいた。
「エド殿下。この部屋は……?」
「会議室だ。会議室の中に隠し部屋が存在していたんだ」
「じゃあ、ここは王城内だったってこと?」
「ああ」
エドゥアルドから遠い所に連れ去られたんだとばかり思っていた。まさか敷地内だったとは。
「さあ、部屋に戻ろう」
「ねぇ、エド殿下。今日はもう会議はない?」
「ああ、ないな」
「じゃあ、もうここには誰もこないよね。オルグレン卿以外は」
エドゥアルドの肩がオルグレン大公の名を出した途端に震えた。
エドゥアルドは誰がハノンを攫ったのか知っているのだ。
「私の本当のお父様。エド殿下はもう知ってんでしょ?」
「ああ、知っている」
エドゥアルドは認めたくないとでもいうように首を振った。
「あの人は病気なんだと思うんだ。私を暗闇に閉じ込めなきゃって思い込んでんの。それが私を守ることだって本気で信じてんだよ。それに、あの人が見ているのは私じゃないんだよ。きっと違う誰か……」
「なにが言いたい?」
「うん。私はここであの人を待つよ。きちんと話がしたい。あの人を救いたいんだ。一応あれでも実の父だしね。見捨てるわけにもいかないよ」
オルグレン大公を助けたいという気持ちがある。だが、それだけではなかった。オルグレン大公がエドゥアルドに危害を加える可能性があると思えたからだ。
エドゥアルドに手を出させてたまるものか。
「……まったく。お前らしいというか……。分かった。だが、私もここにいるぞ。そこは譲れん。やっと見つけだしたんだ。また、攫われるのは我慢ならないからな」
エドゥアルドはハノンを横目に睨み付けた。その目にはあまり迫力がなく、ハノンはエドゥアルドに許されているのだと感じることが出来た。
「でも、あの人がエド殿下に手を上げたら」
「お前は私をなんだと思っているんだ。私がオルグレン卿に腕で負けると思っているのか? 若さでも腕でも私のほうが勝っているぞ」
憤慨したように鼻息荒めにそう言うエドゥアルドは、少し子供っぽくて、ハノンは小さく笑った。
その途端に目の前がぐらりと揺らいだ。
慌てたエドゥアルドに受け止められ、その衝動にハッとした。
「ハノン。医師に見てもらおう」
「平気。多分睡眠薬の類だと思う。すぐに薬も切れるだろうから」
「ダメだ。ビバル、医師をここに」
その言葉にビバルはそそくさと会議室を出ていく。
「ベッドに横になれ、ハノン。心配しなくても私が傍にいる」
再びあのベッドに身を置くことに抵抗を示したハノンを勇気づけるようにそう言った。
本当なら自室に戻したいだろうに、ハノンの我儘を聞いてくれているのだ。
ハノンが運ばれた隠し部屋のベッドには、明かりが注がれていた。
「この部屋電気点くんだ……」
「外からしか点けられない。お前が電気を点けることは出来なかったんだ」
てかてかと明るい光は、とても眩しいが温かみがあり、ハノンを安心させた。
幼い頃、暗い部屋に閉じ込められていてもそこまで追い詰められていなかったのは、常に輝く明るい光を知らなかったからかも知れない。人の温かみや優しさを知らなかったから、それを欲しずにすんだのだ。
「エド殿下……。もう離れたくないよ?」
こんな甘えるような発言が口をついて出てくるのは、非日常を経験してしまったためと、頭が朦朧としているからだろう。
しばらくして現れた白衣の老人は、ハノンを診察してすぐに去っていった。
エドゥアルドと医師がドアの前に立ち、ボソボソと話していたが、ハノンの耳には届かなかった。
医師が頭を下げて出ていくと、エドゥアルドは再びハノンの枕元に戻ってくる。エドゥアルドは、会議室にあった椅子を一脚持ってきて、それに腰掛けていた。
「お前の言うとおり睡眠薬を飲まされていたそうだ。だが、さほど強い薬じゃない。もうしばらくすれば薬も切れるそうだ」
エドゥアルドの手がハノンの手を優しく包み込んだ。
「少し寝ろ。次に目を覚ました時には体も楽になっているだろう」
「寝ない。寝たらエド殿下があの人に何かするかもしれないでしょ? 追い返しちゃうかもしれないでしょ?」
「しない。約束するよ。お前が寝ている間に来たなら必ず起こす。だから、少し休むんだ。そんな朦朧とした頭じゃ話せるものも話せなくなる」
エドゥアルドの熱心な説得に渋々ながら頷いた。
「ねぇ、エド殿下。人払いをして貰ってもいい? 会議室に誰かが立ってたら、あの人入ってこれないと思うんだ」
「大丈夫だ。会議室の前にも中にも誰もいない。お前は心配せずに寝ろ」
「うん。エド殿下。ありがとね」
もう既に朦朧となった頭で、エドゥアルドの手をギュッと握って微笑んだ。
ハノンはエドゥアルドが微笑み返したのを見届けてから目を閉じた。
ハノンが目を閉じると、すぐに規則正しい寝息が聞こえてきた。
愛しいハノンの寝顔を見て胸が熱くなる。無事に自分の手の中に戻って来てくれたことによるものと、これから生じるだろうオルグレン大公との話し合い。
出来れば煩わしいことは全て忘れて、笑顔でいてほしい。
オルグレン大公の別邸で働く使用人主人が話してくれたハノンの過去を思うと、オルグレン大公に会わせるのは出来るのならしたくはない。
それでもハノンが向き合うと決めたのなら、エドゥアルドは隣で支えていようと思うのだ。
恐らくハノンは、自分の母親がもしかしたら魔女かもしれないことを知らない。それを知ったとき、ハノンはどうなってしまうんだろう。
「ハノン」
無意識に呟いた愛しい少女の名に、寝息を立てている彼女が返事をするかのように、握られた手に力が入った。
「お前は私の傍にいろ、ハノン」
エドゥアルドとて離れるつもりはないが、それでも指の僅かな隙間からハノンが逃げ出してしまうんじゃないかと思うと、不安にもなる。
その時、ドアの向こうで物音がしたかと思うと、ゆっくりとドアが開いた。