第40話
「ハノンはオルグレン卿と魔女の子……」
エドゥアルドの呟きは、ふわりと浮かび上がり、シャボン玉のように消えていった。
「そうであると、誰もが思っているのです。その考えに縛り付けられていると言っていいんじゃないでしょうか。しかしそれが事実かは恐らく魔女にしか分からないのです」
事実がどうであれ、オルグレン夫妻に入った亀裂はそう簡単に修復されるものではない。
一度崩れたものを取り戻すということは、並大抵の努力では出来ないのだ。それこそ一生をかけても不可能であることもある。
「そうか。オルグレン卿はどう思ってるんだろうな?」
「分かりません。旦那様はかつて愛した魔女の面影をハノンに見ているのかもしれません」
魔女の面影をハノンに見ようと思う気持ちも分からなくはない。実際、ハノンと魔女は似ている。結婚前の背景を考慮すれば、そんな考えに及ぶのも頷ける。
「オルグレン卿がハノンに危害を加えないということは分かった。オルグレン卿は、ハノンはここにいないのか?」
「ええ、おりません。旦那様がここへ来たのは随分前のことですから。しかし、幼い頃旦那様がハノンを閉じ込めていたのは、この屋敷でしたから、またこちらに連れてくるものと思っておりました」
使用人主人はエドゥアルドとハノンの噂を聞いたときから、オルグレン大公がいつハノンを連れて来るかと待ち構えていたそうだ。
「オルグレン卿がハノンを閉じ込めることの出来る場所を知らないか?」
「申し訳ありません。ここでないのなら私達にはもう……」
ここも違ったということだ。だが、ここに来たお陰でハノンの過去を知ることが出来た。
ハノンが知りたがっていた両親のことが。ハノンも今頃、自分の父親と対峙しているんだろうか。自分の出生の秘密を聞かされているんだろうか。
どんな理由があれ、自分の娘を閉じ込めてしまうなど、もってのほかだ。
ハノンが一人、どんな気持ちでいるのか、考えるだけで胸が締め付けられる。
侍女とおもしき女性がエドゥアルドの前に立ちはだかったのは、一行が別邸を出ようと足を一歩踏み出したところだった。
「エドゥアルド殿下っ。話を聞いては頂けないでしょうか」
「こらっ、止さないか」
使用人主人が止めようとするが、女性はエドゥアルドを見上げ、瞳を逸らすことはない。
「お父様。これは大事なことですっ。ハノンについてのことでございます」
その女性が使用人夫妻の娘であることは、その顔を見ればすぐに分かる。
「構わない。何だ?」
「私、数日前までは本邸で働いていました。別邸に異動になったのは、私が聞いてはいけない話を聞いてしまったからなのです。旦那様と相手は誰かよく見えませんでした。恐らく貴族の中でも旦那様の金魚のフンのようについて回っている方々の中の一人だと思います。その方が旦那様におっしゃいました。『あそこならいくら城に住んでいる王族でも分かるはずがありません。まさかあんな近くにいるとは、殿下でも思いますまい』と。最初、私はなんの話をしているのか分かりませんでした。ですが、ここに帰り、父からハノンのことを聞き、その話が意味することについて思い当たりました」
エドゥアルドもビバルも、使用人夫妻さえも驚いていた。
寝耳に水とはこのことだ。オルグレン大公は、エドゥアルドの死角となる王城内にハノンを隠したのだ。
「分かった。有力な情報をありがとう。感謝するよ」
「どうかっ、どうかハノンを旦那様からお救い下さい」
「勿論、そのつもりだ」
娘は漸くホッとしたように表情を和らげた。
この家族は本当にハノンを愛してくれていたのだ。無力な自分達を責め、歯痒い想いを抱えていた。
「ハノンが無事に私の元に戻ったなら、あなたたちをハノンの傍に置きたいと思っている。城に来ては貰えないか?」
「ありがたいお言葉です。ですが、私どもは何十年も旦那様に仕えてきました。私達夫婦は旦那様が幼い頃からお側におりました。今回の件で、旦那様に何らかの罰が与えられたとしても、私達はお待ちしていようと思います」
深々と頭を下げる三人に、心を打たれた。オルグレン大公は、エドゥアルドにとっては敵といっても差し支えないような人物ではあるが、使用人にここまで想われているところを見ると、そこまで悪い人間ではないのかもしれない。
オルグレン大公の別邸を出たエドゥアルドは、真っ直ぐ王城を目指した。
「私は殿下がどんな罪を犯そうとお側で仕えさせて貰いますよ。殿下がイヤだと言っても」
隣を走っていたビバルが、顔を前方に向けたまま、まるで独り言のようにそう呟いた。
エドゥアルドがオルグレン大公を少しばかり羨ましいと思っていたことを見透かしていたように。
「ふっ、そうか。それは頼もしい」
「殿下。ハノンを攫われて苦しいのは殿下だけではないのです。私も妹のように思っているのですから。一人だけ苦しいとは思わないで下さい」
全くその通りだ。
自分ばかりが苦しいと本気で思っていた自分を恥じた。
ビバルだけじゃない。アナなどエドゥアルドよりも共に過ごす時間が長いのだ。それに加え、自分を必要以上に責めている。
エドゥアルドはアナに何らかの罰を与えるつもりはなかった。アナを罰すれば、ハノンは激怒するだろう。ハノンもまたアナを姉のように慕っているのだ。
「分かっている。ビバル、行き先を変更するぞ」
「トム爺のところですね」
「ああ」
察しのいいビバルに苦笑を漏らす。
長年一緒にいると、考え方が似てくるものだ。
トム爺の家はオルグレン大公の別邸と王城をちょうど三角形で結んだ辺りにある。
幼い頃は用もないのに遊びに行っては、トム爺に邪魔扱いされていたものだ。今は執務に忙しく、前に会ったのがいつだったのか思い出せないくらいだ。
トム爺の家は人のとおりが少ない静かなところに立っている。
トム爺の仕事は大きな意味でがらくた作りといったところだろうか。とにかく手先が器用で色んなものを暇さえあれば作っている。
エドゥアルドやビバルが幼い頃に使っていた玩具なども全てトム爺によって作られたものだった。
看板のない店はいつも開け放たれている。一見入りづらそうにも見えるが、客は町民なので顔馴染みのため、遠慮せずに入っていく。
「トム爺っ。いるんだろっ」
エドゥアルドが叫べば、のそりと小柄な白くまのような爺さんが姿を現した。
「騒がしいのぉ。そんなに叫ばんでも聞こえておるわい。んんっ、なんじゃ、こりゃ珍しい客が来たもんだ。とんと見ん顔じゃ」
「懐かしんでる暇はないんだ。トム爺に聞きたいことがあって来たんだ」
トム爺の右の眉が上がった。トム爺の癖でことあるごとにその表情を作る。
「一体なんじゃ。突然来たかと思えば慌ただしい」
「本当に急いでいるんだ。教えてくれ。王城に作った隠し部屋はどこにある?」
再びトム爺の眉が上がる。そして、口の周りにたっぷりと蓄えた白い髭を右手で擦った。
エドゥアルドの目の中を注意深く観察すると、うむ、と何度か頷いた。