第39話
誰だか知らないあの男は、ハノンのことを娘だと言った。聞き間違えではなかったはずだ。
あの男の匂いをハノンはどこかで嗅いだことがあるような気がした。王城に来てからのこと、これだけ鼻に匂いを記憶しているということはそれが魔獣の姿のときに嗅いだものであると推測していた。
あの男がこの部屋を出たあとから、ずっと魔獣になってから関わってきた人物を思い返していた。
魔獣でいた頃の期間は短い。だが、王城にいる人はあまりにも多い。
結局、その人物を特定することも出来ずにいつの間にか眠りに落ちてしまった。
どれくらい寝ただろうか、暗闇の中では昼であるのか夜であるのか朝であるのか、分かるはずもなかった。
ただ、こんな時にあっても空腹だけは感じていた。
ここに来てからどれだけの時間が過ぎたのだろう。
「エド殿下が心配してるよね」
愛しい人の名を口ずさんだだけで、込み上げてくるどうしようもない想いを為す術もなく押しつぶした。
エドゥアルドが隣にいてくれたなら、この想いをぶつけることも出来たのに。
何度思い返しても、なぜあの時アナを行かせてしまったんだろうとは思わなかった。アナにはアナのなすべき仕事がある。それをハノンという存在のために遮らなければならないなんておかしい。
ただ、気になるのはアナが何らかの処罰を受けていないかということだ。
ハノンが連れ去られたのは、隙があったからで、決してアナのせいではないのだ。
早く帰らねば……。
ガチャンと解錠された音にハノンは身を縮み上がらせた。
例のごとく現れた男は、トレイのようなものを持っていた。
「ハノン。ご飯の時間だよ。さあ、お腹が空いただろう?」
右手にトレイ、左手には蝋燭が握られている。蝋燭と言ってもとても小さなもので、部屋全体を照らすには不十分なものだった。
「お腹は減ってない」
そう言った途端に無情に響き渡る腹の虫。
クスクスと小さく笑う男の行動が少し意外だった。不気味にしか笑えない人なんだと勝手に思い込んでいた。
「さあ、私が食べさせてあげよう」
ベッドの脇まで歩み寄るとそこに腰を下ろした。
トレイの隅に蝋燭を置き、スプーンで掬ってハノンの口元まで運んだ。
「あなたは……」
近くに来たことで浮かび上がったその顔に見覚えがあった。
「オルグレン卿」
ハノンは以前、この人の前で倒れたことがあった。
「どうして?」
「さあ、口を開けて」
ハノンの問いには答えず、スプーンをハノンの口元で促すように動かした。
「自分でーー」
口を開いた拍子にスプーンを押し込まれ、仕方なくそれを粗食した。
「いい子だ、ハノン」
「自分でやります」
手を伸ばしてスプーンを奪おうとするが、ひょいと避けられてしまう。
「あなたが私を攫ったの? 何であなたが?」
「食事中は静かに」
低く言い放たれ、仕方なく口をつぐんだ。
幾度かスプーンを奪おうとしたが、するりとかわされ、それも叶わなかった。仕方なく促されるまま食事を口にするしかなかった。
「あなたが私の父親だというのは本当ですか?」
食事を綺麗に食べ終えたあと、ハノンは口を開いた。
「嘘だと思うのかな?」
「分かんない。私には過去の記憶がないから。ただ、一番不思議でなんないのは、なぜ私がここに閉じ込めらんなきゃなんないのかってこと」
「ハノンは言葉を話してはならないんだ。なんてことだっ。私のハノンがっ」
オルグレン大公は頭を抱えて、苦しみだした。
どうしてこうなるのか、何がオルグレン大公をこうするのかハノンにはいくら考えても答えは見つけられない。
無意識に手が伸び、オルグレン大公の頭を撫でた。
オルグレン大公は弾かれたように顔を上げ、ハノンを食い入るように見つめた。
「ねぇ、何がそんなに苦しいの? 何がそんなに悲しいの? 何がそんなに怖いの?」
初めて顔を合わせた時の恐怖は今のハノンにはなかった。
この何かに怯えている哀れな男に、何が出来るかそればかり考えていた。
そして、この男を救いたいと強く思った瞬間に全ての過去がハノンの記憶の中に戻ってきた。
ああ、そうか。そうだった……。
「奥様と結婚する前、旦那様には深く愛した女性がおりました。今の奥様は親が決めた政略結婚。愛した女性と結ばれることはなかった。旦那様の心の中にその想いだけが残されてしまった。その一年後お二人にはお子様が産まれました。その子は……」
使用人主人が言いにくそうに口ごもるので、エドゥアルドは続きを引き受けた。
「二人には似てもにつかない黒髪黒目の女の子だった」
「ええ、そうです。それから奥様は精神を病み始めた。それは旦那様とて同じことでした。奥様はハノンを殺しかねないほど憎み、旦那様は異常なまでの愛情を注いでハノンを閉じ込めてしまった」
使用人主人は、苦しそうに目を伏せ当時を思い出しているようだった。
「旦那様は奧様の目の届かないところにハノンを閉じ込めました。奧様だけではありません。誰の目にも止まらないように部屋から光を奪い、誰とも話さないように言葉を教えなかった。唯一教えたのは、ハノンという自分の名前だけ。私達使用人でさえ近付くことを禁じられ、旦那様がハノンの世話を全てこなしていました。けれど、ある時奥様にハノンの居場所が知れてしまった。旦那様の目を盗んで、ハノンに会って罵り、頬を張った。暗闇の中、多少の頬の赤みは旦那様の目には止まらない。それが奥様には分かっていたのです」
オルグレン大公が誰にも見られたくないと闇にしたことが、オルグレン夫人の暴挙を見逃すことになってしまった。
「私達はそれを知っていながら、止めることすら出来なかった。三年前、旦那様が部屋に入りハノンがいなくなったことを知って暴れ狂うのを見たとき、私達はホッとしたものです。誰かがハノンを自由にしてくれたのだと」
使用人の女房が主人の膝に手を置き、主人はそれを強く握った。
「先日町で、エドゥアルド殿下の恋人が黒髪黒目の少女だと聞いた時には、私達にはそれがすぐにハノンだと分かりました。ハノンが幸せでいるんだと思ったら嬉しかった。でもそれと同時に不安でした。旦那様がまたハノンを閉じ込めてしまうんじゃないかと」
「オルグレン夫人がハノンに何かするとは思わなかったのか?」
使用人主人はゆっくりと頭を横に振った。
「奥様は今、入院しております。精神を患った患者が収容される病院です。町の噂が耳に入ることはありません」
本邸の使用人がオルグレン夫人のことを尋ねた時に慌てていたのは、これが原因だったのだ。オルグレン大公は、夫人が精神を病んでいることを外に漏らさないように躍起になっているのだ。
エドゥアルドは一つ気に掛かっていることがあった。
「私の推測が正しいかは分からないが、オルグレン卿が想いを寄せていた女性というのは……」
「ええ、殿下の察しの通りです。私達は、ハノンはその方と旦那様の子ではないかと思っています。確かにハノンは奥様のお腹に宿り、奥様が出産なさった。それは確固たる事実です。けれど、あの方ならそんなことも可能かもしれません。それだけの力をお持ちですから。奥様もそう思われたからこそ、あそこまで精神を病んでしまわれたのです」
エドゥアルドは確かめるように呟いた。
「ハノンはオルグレン卿と魔女の子」