第38話
「私がハノン嬢を攫ったとでも?」
オルグレン大公の余裕のある涼しい顔に苛立ちを覚えると共に、焦りも感じていた。
これだけ余裕があるということは、もしかしたらここにはいないのではないかと、ちらりと考えた。
まさか違う場所にハノンはいるのか……。
一人考えに沈むエドゥアルドにオルグレン大公はさらににやりと微笑む。
「私を疑うなら、さあ、全ての部屋を余すことなく探すといい」
前々から思っていたことだが、この男とエドゥアルドはどうにも相性が合わない。エドゥアルドを次期国王と望む貴族の筆頭であるオルグレン大公であったが、なぜエドゥアルドを推すのか疑問だ。その裏には、オルグレン大公の醜い欲望が垣間見え、気分が悪くなる。
「それでは遠慮なく探させてもらいます」
オルグレン大公のこの含みのある笑みを見ればもう結果に間違いはないように思える。
ここにハノンはいない。もしくは、これだけ大きな屋敷だ、他を探している間にいくらでも連れ出すことは可能だろう。
それでもエドゥアルドは、少しの可能性があるのなら、探さないわけにはいかないのだ。
「私は忙しいので、お付き合いすることは出来ませんが、心ゆくまで探していただいて結構ですよ」
オルグレン大公は、含み笑いを浮かべたまま去っていった。
エドゥアルドとビバル、カイルを案内したのは、応接間まで案内してくれた使用人だった。
「ここで働いて何年に?」
「私ですか? 私はこちらで働かせてもらうようになっておよそ三十年ほどでしょうか」
人の良さそうな初老の使用人は、どこか怯えているように見えた。
「オルグレン卿に子はいなかったと思うが?」
「え、ええ、旦那様にはお子様はおりません」
本人は気付いていないのだろうか。額から浮かびあがる汗が尋常な量じゃないということに。
この男もまた何かを隠しているのだ。
「じゃあ、こんな屋敷じゃ大きすぎるんじゃないか」
「そうかもしれませんね」
オルグレン大公は、夫人と使用人達を住まわせているだけだ。それでも、空き部屋はたっぷりと余っていることだろう。
「殿下。いませんね」
カイルが部屋を開けながらそう言った。
「ああ」
どの部屋にもハノンの姿はなく、彼女がいた形跡すらなかった。
やはりここに連れてきたわけではないのだ。
「オルグレン夫人は今日はご在宅か? 騒がせてしまったことを一言謝りたいんだが」
使用人を振り向き、そう言うと、使用人は飛び上がらんばかりに驚いた様子を見せた。
「奥様は本日はお出かけになっております」
「妻は不在でね。ハノン嬢はいたかな?」
「いいえ。いませんね。どちらに隠しているのですか?」
「エドゥアルド殿下はどうしても私を誘拐犯にしたいようだ。殿下だから許されるのかもしれませんが、あまりに不躾ではありませんか? 私だという確固たる証拠でもあるのでしょうか?」
見せられるような証拠は何もない。状況とハノンの様子、魔女の言葉でエドゥアルドは犯人がオルグレン大公だと判断した。
「証拠はない。オルグレン卿、そなたは魔女と知り合いか?」
今までずっと消えることのなかった含み笑いが、魔女という言葉を聞いた途端に跡形もなく消え失せた。
「ま、魔女などっ、知るわけがない」
その動揺っぷりは、あまりに大きく、魔女との間に何かがあることは明らかだ。オルグレン大公の動揺した姿はあまりに珍しく、それだけ魔女との間にある何かが重大であることが察せられる。
「そうですか。でも、彼女はあなたを知っているようでしたが……」
「わっ、私が嘘を吐いているとでもいうのかねっ」
完全に取り乱したオルグレン大公に、余裕はもはや無いように思えた。
「今日のところは引き揚げますが、私はあなたへの疑いを解いたわけではない」
疑いではなく、確信であるのだが、この男を怒らせることもまた懸命ではないと判断しての発言だ。
「よかったんですか? あんなにあっさり引いてしまわれて」
オルグレン邸を出た途端にビバルがうかがいをたててくる。
「あの屋敷にハノンはいない」
「ですが、我々の目を買い被って部屋を移動させているかも知れません」
「匂いがない」
「は?」
「どの部屋にもハノンの匂いが残っていない」
毎日嗅いでいたハノンの匂いをエドゥアルドが忘れるはずがなかった。
あの屋敷には、ハノンの匂いが全くなかった。エドゥアルドは、あの屋敷にハノンが運ばれてはいないと確信している。
「匂いまで確認していたんですか? まるで犬のようですね」
「なんとでも言えっ。今はそんなことはどうでもいい。オルグレン卿が所有する建物を至急調べてくれ」
ビバルが慌ただしくかけていく姿を見送り、心臓を強く掴んだ。
息をするのもやっとだった。立っているのもやっとだった。ハノンがいないということが、こんなにもエドゥアルドの体を傷めていた。
もうハノンのいない日常には戻れない。
「殿下、ここから西に向かったところにオルグレン卿の別邸があります」
「よし、これから向かうぞ」
馬車からおり、自ら手綱をとり馬に乗って走った。
ハノンがいるという可能性に賭けて。
オルグレン大公が所有する建物は本邸とその別邸だけだ。そこにいないとなると、振り出しに戻ってしまうことになる。
オルグレン大公の別邸には、使用人だけが暮らしている。オルグレン夫妻が余暇を楽しむためだけに建てられたその屋敷は、本邸よりも小振りではあるが、十分な広さがあった。
「これはっ。エドゥアルド殿下。こちらに旦那様はおられませんが……」
「ハノンはいるか?」
白髪の交じった人の好さそうな使用人の顔色が明らかに変わった。
「いるのか?」
「いえ、おりません」
「では、なぜそんな顔をしている」
使用人は罰が悪そうに俯いた。
「あなたっ」
「おまえっ」
初老の使用人に駆け寄った女性は使用人の奥方なのだろう。
「エドゥアルド殿下。私が、私達が知っていることを全てお話し致します」
「おまえっ、そんなことが許されると思っているのかっ」
狼狽えている主人とは対照的に、女房の方は落ち着いていた。
「私はハノンが不憫でならないんです。エドゥアルド殿下なら、あの子をなんとかしてくださるはずです。これ以上、あの子を苦しめたくはないと、あなたもそう言っていたはずです。エドゥアルド殿下。あの子を、ハノンを助けていただけますか? ハノンを旦那様から救っていただけますか?」
切々と語る女房にうなだれる主人。女房はエドゥアルドを強く見つめ、問い掛けた。
「私はハノンを愛している。私がハノンを救うと、守ると約束しよう」
安心したように頷いた女房に主人もエドゥアルドの言葉に漸く覚悟を決めたようだ。
「ここではなんですので、中へどうぞ」
通された応接間は、本邸同様手入れが行き届いていた。
悠長に茶など飲んでいる暇はなかったが、出されたカップに口をつけ、自分の口内がどれだけ渇いていたかを知った。
「心配でしょうからこれだけは先に言っておきましょう。旦那様がハノンの命を奪うことは決してありません。襲うことも」
「なぜそんなことが言い切れるんだっ」
エドゥアルドが声を荒げるが、使用人主人は、エドゥアルドを見据えてこういった。
「ハノンは、旦那様の実の娘だからです」