第37話
真っ暗闇の中でハノンは目を覚ました。
ここがどこかも、今が何時であるのかもまるで分からない。ここが屋内であることは間違いないのだろうが、どの程度の広さなのかも、古いのか立派なのか地味なのか派手なのかも皆目見当がつかない。
なんで自分はこんな暗いところにいるんだろう。
右を見ても左を見ても上を見ても闇。だが、手触りからベッドに寝ていたことだけは分かった。
「エド殿下……」
いつもハノンの支えになってくれる存在を近くに感じないことが、一番悲しかった。
暗闇には慣れているつもりでいた。だが、いつも明るいところで、温かい人たちに囲まれて暮らしていくうちにいつの間にか暗闇が怖くなっていた。夜はいつもエドゥアルドが抱き締めてくれていたから、その温もりがないのは心もとない。
ここが何処だかは分からないが、確実に王城でないことは確かだ。イヤ、もしかしたらハノンが知らない隠し部屋が王城内にもあるのかもしれない。
少し落ち着きを取り戻してきたハノンは、意識が途切れる前の記憶を辿ってみることとした。
「ドリスと話しをして、エド殿下と顔合わせをして、その後お兄様がいる図書館までドリスを送り届けたんだ。その後どうしたんだっけ? 確か……、アナと歩いていて……、そうそう女の人の叫び声が聞こえて……。そうだっ、私、あの時誰かに会ったんだっ」
アナがその叫び声のもとへ走っていった後に、男の人が現れて、ハノンは意識を失った。その人物の顔を見ることがないまま、意識を失ったんだった。そう、あのいつもの悪夢に出てくるシルエットに恐怖を感じて、逃げるように意識を手放したんだ。
「その人が私をここに連れて来たってことだよね……」
暗闇に目が馴染んできたので、恐る恐るベッドを下りてみる。見事に窓一つない完全なる闇。ベッド以外は何も置いていない。思ったよりも広いのかもしれない。
手を伸ばして一歩一歩前に進んでもすぐには壁に行きあたらなかった。右も左もしかり。この部屋のど真ん中にベッドが置かれていることになる。家具はない。ベッドのみだ。
壁をつたってどうにか電気のスィッチがないか探るものの、その類いのものは見当たらない。なにしろ何にもないのだ。
唯一いきあたった扉、ノブを回してみるが鍵がかけられているのか、開く気配がない。
「……閉じ込められた。もしかしてこれって誘拐?」
目を開いた時からうすうすと感じていたことを口に出して言ってみた。本当に現実として受け止めなければならなくなったことに後悔するはめになった。
「ちょっとぉ、出してよっ」
扉をドンドンと激しく叩きながら、声を張り上げるが、何しろ扉が厚すぎる、恐らく防音されているのだろう。誰も来ることはなかった。
扉を叩くことを諦めたハノンはベッドの上に戻った。戻ったはいいがこれから何をどうすればいいのか、全く脳が働いてくれない。恐らく、連れて来られた時に何らかの薬をかがされたため、正常に思考が回らないのだろう。
「ちっ、どこのどいつだか知んないけど、ここから出られたら、グーで殴ってやる」
拳をぎりぎりと握り締め、歯ぎしりしながらそう呟いた。
先ほどから自分の状況ばかり気にしていたが、エドゥアルドたちの方はどうなっているのか気になりだした。
もし、ハノンが王城から姿を消すことになったら、エドゥアルドが黙ってはいないだろう。ハノンが攫われたと考えるだろうか、それとも逃げ出したと思うだろうか。以前に王城を抜け出した前科があるから、またやらかしたと探しもしてくれなかったらどうしよう。
今回はハノンだけがいなくなったのだから……、イヤ、待てよ、もしかしてアナも何者かに攫われこことは違うところに監禁されているのだとしたら……。
もし逃げ出したと考えたとしても、ハノンが逃げ出す先など魔女のところくらいしかいない。魔女に問い合わせれば、ハノンが逃げ出したわけではないと分かるようなものだ。
今すぐに誰かが助け出してくれるということは、考えられないだろう。だとすれば、頼れるのは自分のこの力だけか……。
そんなことを、回らない頭でなんとか時間をかけて、導き出した時、突然扉の鍵が解錠された音が耳に入った。
ベッドの上の毛布を手繰り寄せ、それがなにかのお守りとでもいうように大事に握りしめた。
扉が開き、闇の中に光が入るとスポットライトのようにハノンを照らした。
「ハノン。ああ、私のハノン。君にどれだけ会いたかった分かるかい?」
聞いたことがあるようなないような低い男の声。あまりに光が強くて、その顔を見ることは出来ない。見たいような見たくないような、不思議な気持ちで目を細めていた。
「あんた誰? 私、あんたなんて知らないっ」
「ああ、なんてことだ。何の為に私が君に言葉を教えなかったと思っているんだ。そんな言葉をその可愛らしい口から聞くことになるなんて、不快でしかない……」
男が何を言っているのかさっぱり理解できない。
「何言ってんの、あんた。私を早くエド殿下のところに返してっ」
ハノンが力の限りそう叫ぶと、男は扉の前からつかつかとベッドの前まで来ると、その大きな手でハノンの口を乱暴に塞いだ。
「不快だと言っているんだっ。君は何も話さなくていい。ただ一つの言葉を除いてね。さあ、言ってごらん。お父様、と」
男の手から逃れようともがくが、男の力は想像以上に強かった。
こんなに近くにいるのに男の顔が見えない。目だけがぎょろりと光っていて不気味だ。
それに、この男の言っている意味がまるで理解出来ない。なんで人を攫うような男に(この男が来たことで確実に自分が攫われたのだと悟った)『お父様』などと言わなければならないのだ。しかも、見ず知らずの男に。
言うように促すように手の力が緩んだ。
「なんで私があんたなんかをお父様って呼ばなきゃなんないのよっ。私のお父様はチチェスター侯爵、ただ一人よっ」
ぎょろりと光るその目を思い切り睨みつけ、男に向けて言い放った。
にやりと笑った男の歯が浮かび上がった。ぞくりと背筋を汗が流れたが、ハノンは睨み続けた。
「悪い子だ」
そういうと、手の甲でハノンの頬を勢いよく叩いた。体制が崩れて倒れ込んだがベッドの下に落ちることはなかった。
「可愛いハノン。父に対してそんな口をきくもんじゃない。少し反省するといい」
ぴりぴりする頬を押さえて呆然と見上げているハノンに、それだけ言うとハノンに背を向けて部屋から出ていった。
ガチャリという鍵の締められた音の後は、歩き去る音すら聞こえない。
知らず止めていた息を一気に吐き出した。
男に負けまいと一生懸命虚勢を張っていたが、怖くて怖くて仕方がなかった。あの男が悪夢の中の男と重なった。あの男が夢に出てくる男なのかもしれないと、それが正しいのだとどこかで感じていた。
「あの男は私の本当の父親なのかもしれない……」
認めたくない。あんな男が父親だなんて。娘を暗闇に閉じ込めるような親だなんて。
だが、それが事実なのだとハノンには分かっていた。これが真実なのだと。
『ごめんなさい』と何度も言い続ける夢の中のハノン。あれはただの夢じゃなく、ハノンの過去。闇の中に閉じ込められていたハノンの過去。
「自分の両親のことなど、知りたいなんて思わなければ良かった……」