第35話
ドリスを見ていると、知るはずもない幼い頃を見ている気がして奇妙な感覚を覚える。
幼い自分を客観的に見ているようだ。
「私は一度死んだのかもしれない。チチェスター家に引き取られたあの時に私は生まれ変わった。なら、私が知ろうとしていることは、自分の前世を知るような無謀なことなのかも」
一人納得しながら呟いていると、視線を感じて顔をあげると、ドリスが首を傾げて見ていた。
「ごめん。考えごとしてた」
「ハノン。大丈夫ですか? 自分のことばかりで忘れていたけれど、ジェロームがいつもハノンの心配をしていたの。ハノンがどんな状態にあるのかを聞いたわけじゃないけれど、あまりにジェロームが話すから、私もなんだか他人の気がしなくて……。ずっとどんな子なんだろうって気になってたのに、それすら忘れていた」
「ドリスさんはお兄様が好きなんだ?」
ドリスの話はジェロームが中心になっており。共通の話題がジェロームしかないから、というだけではないだろう。
「あの、えと、ああ、はい。……そうです」
ドリスは手をバタバタさせて何かと戦っていたが、最終的には何かに降伏したように真っ赤な顔で頷いた。
「なんだ。両想いなんじゃん」
小さな声で呟いた。
「えっ?」
「ううん、何でもない」
キョトンとした目でハノンを見るドリスは小動物のようで可愛い。なるほど、ジェロームが好きそうなタイプだと納得した。
「一つ提案があるんだ。もし、良かったら私と一緒にここで侍女として働かないかな?」
「そっそんな、私には勿体ないです」
ここにドリスを呼んだ真の目的はそこにあった。ジェロームからドリスの話を聞いた時からそのことを考えていて、エドゥアルドやルシアーノにも打診していたのだ。二人はこの件をハノンに一任してくれた。ハノンが最終決定を下して良いと。
「陛下にもエド殿下にももう話は通してあるんだ。あとは、ドリスさんの返事だけ。どうかな?」
ドリスの真意を問うような真っ直ぐな瞳が、ハノンの瞳の中を探ろうとしている。
ハノンはその瞳をしっかりと見据えて、彼女の答えを待った。
たった今答えを貰えるとは思っていなかった。ドリスにとっては突然の提案であるし、そうでなくても悲しみの淵にいる彼女の頭は混乱しているだろうから。
「やります。私、やりますっ」
だから、そう言われるなんて思っても見なくて、思わず聞き返してしまった。
「えっ? やりたいんですけど……」
ハノンが聞き返したことで、不安な声を漏らす。
「もちろんっ。やっていいんだよ。ただ、こんなにすぐに返事が貰えるとは思えなかったからさ」
「そうですか。良かった」
ホッと息を吐いたドリスの顔はここに来て、初めて見たときよりも幾分生気を帯びていた。
「もし時間があるなら、エド殿下と陛下に会っていく?」
「でも、急にお目通りなんて……」
「執務してるけど、別に少しくらい平気だよ」
ドリスは多少気後れしていたが、ハノンは彼女の腕を掴んで有無を言わさず引っ張りだした。
「てわけで、働いてくれるって」
エドゥアルドの執務室に乱入して、ドリスを紹介した。
「そうか。まあ、そうなるだろうと思っていたよ」
書類に目を通しながらそう言った。
「よろしくお願いします」
「よろしく頼むよ。ハノンはまだまだ侍女としては使えないし、週に何度かは魔女のところに行かなければならないから、人手が足りなかったんだ」
「別に使えないことないよ。慣れてきて、大分仕事もこなせるようになってんだから」
唇を突き出して不平を言えば、エドゥアルドはくくっと小さく喉を鳴らした。
「笑った。今、笑ったでしょ? ムッカァ。人のことバカにしてっ」
ハノンが言い募れば言い募るほど、エドゥアルドの口角が上がっていく。
「ははーん、分かったぞ。好きな子には意地悪したくなっちゃう心理でしょっ。変態だ、変態っ」
「ばっ、誰が変態だ。こんなもの男の一般的な心理だ」
「一般的ってよりもドSのの間違いなんじゃないの」
「そうだ、私はドSって。そんなこと認めるはずがないだろう」
明らかにエドゥアルドはドSだと思う。そうでなければ、ただのお子様と同じになってしまう。
「……ドS。エドゥアルド殿下はドS……」
口の中でもごもごとはっせられただろうその小さな声を、ハノンもエドゥアルドも聞き逃さなかった。
視線を辿れば、ドリスがわなわなと震えている。
エドゥアルドのイメージが崩壊して、ショックを受けているのだろう。
気の毒に……。
「イメージ通りですっ。エドゥアルド殿下はドSって感じだと常々思っていたのです」
顔を上げた時のドリスの瞳はギラギラと輝いていた。一瞬後退りしてしまいそうなその強い目にハノンは釘付けになった。
「ドSのエドゥアルド殿下がハノンを攻め立て、ハノンは悪態をつきながら許してしまい……。ああ、素敵っ」
「ハノン、彼女を本当に雇っていいのか?」
「イヤ、ごめん。私もちょっと自信ないや」
まさかドリスが妄想癖だったとは。
うっとりと妄想に耽るドリスはハノンとエドゥアルドのどん引きした視線に全く気付いていない。
「取り敢えず働いて貰っていいと思うけど。陛下は今日会えるかな?」
「今日は無理だろう。彼女のことはお前に任せると言っていたんだ。そのうち紹介すればいい。雇い入れたことだけ報告しておくからな」
「うん。ありがとう。仕事の邪魔しちゃったね。ごめん。もう行くよ」
エドゥアルドの執務室から出たあと、図書館へドリスを送り届け、その場で二人とは別れた。ドリスは一旦家に戻り、身辺整理をしてから住み込みで働くことになる。ドリスがいなくなった家は、ドリスがいつでも帰れるようにチチェスター侯爵が管理することになっている。
「大丈夫かな、ドリスは?」
「大丈夫ですよ。人はそんなに弱くはないですから。少しずつ自分で折り合いを付けていくんです」
アナが強くそう言って頷いたので、もしかしたらアナにも近しい誰かを亡くした経験があるのかもしれない。
ちらりとアナを窺うと、その視線に気付いたのか、微笑んだ。
「兄が死んでいるんです。病で倒れて、治療する間もなくあっという間に逝ってしまいました」
アナの表情には、苦しみも悲しみもない。あるのは懐かしみを含んだもののみだった。
アナはどれくらいの期間を経て折り合いを付けてきたんだろうか。
「今も決して忘れたりしません。兄が見てるんだって思えば、頑張れるんです。だから、ドリスもきっと大丈夫」
アナの言葉には説得力があり、ハノンを安心させるには十分すぎるものだった。
「うん」
アナと微笑みを交わした。ハノンにとってアナは、姉のような存在だと強く感じた。
「だっ誰かっ。誰か助けてっ」
その切羽詰まったか弱そうな女性の叫び声が聞こえたのは、アナとハノンが微笑み合い、ふんわりとした和やかな雰囲気を作り上げている時だった。
ハッと体を緊張させたアナが迷っていることに気付いた。
「アナ。私はここで待ってる。だから、行って来て」
アナがすぐに動きださなかったのは、ハノンという守らなければならない存在がいたためだ。
だが、アナには近衛兵としてすべき仕事をして欲しかった。
ハノンが背中を押すと戸惑いを見せたものの、強く頷いてみせると、アナも一つ頷き漸く走りだした。
アナの背中が見えなくなった時、ハノンの目の前に大きな影が落ちた。
「ハノン。迎えに来たよ。帰ろう」
既視感に襲われ、目の前が真っ暗になった。霞に覆われた大きな男の影が近づいてくるのを最後に、ハノンの視界が途切れた。