第32話
ハノンの心は充足感に満ちていた。
エドゥアルドとお互いの気持ちを確認し、人間の姿に戻り、前と変わらずエドゥアルドの傍にいられる。
それだけで、どんな煩わしい好奇の視線も気にならなかった。誰に見られようと、何を陰で言われようと、ハノンの高揚感は続いていた。
「ねぇ、アナ。やっぱり変な視線を感じるよ」
毎日ではない。だが、時折感じる視線が気になっていた。エドゥアルドには、話してあるがどうにも落ち着かない。
悪意でないことは確かだ。強いて言うならば、魔女の眼差しに似ているかもしれない。魔女のハノンに向ける視線はとても控えめで、穏やかで、優しい。その魔女の視線よりも強い執着のようなものを例の視線からは感じている。
王城にそんな視線を寄せるような知人はハノンにはいない筈だ。
「ハノン。今日はご家族がいらっしゃるんですよね?」
アナの言葉にチチェスター家の人々の顔が浮かんできて、自然と笑みが零れる。
ハノンが人の姿に戻ったことを知り、駆け付けてくるのだ。ハノンがかけられた呪いを知っているジェロームにエドゥアルドとの関係についてからかわれることは間違いない。それでも、彼らに会えることは嬉しかった。
「うんっ」
アナに笑顔で返すと、何故か眩しそうに目を細めた。
前回チチェスター家の面々が訪れた時のように、事前にエドゥアルドが話をし、それからハノンが呼ばれることとなった。
応接間に入るとすぐにチチェスター夫人がハノンに飛び付いた。大人の女性を一人支えることなど出来るわけもなく、二人一緒に傾いていくのだったが、後ろについていたアナが二人の体重を支えてみせた。
女性だったとしても、二人の体重を涼しい顔で受けとめて見せたアナを驚愕の思いで見ていた。
女が近衛兵になるには、これほど力がなければ勤まらないのか。
「気を付けてください、お二人とも」
アナが女性だと分かっているのに、チチェスター夫人はアナの笑顔に見惚れている。
「ごめん、アナ。ありがとう」
「ありがとうございます」
頬を赤らめ、アナに上目遣いをするチチェスター夫人に、チチェスター侯爵は唖然としていた。
「いいえ、私の役目ですから」
スマートに軽く頭を下げるアナが、もし男であったなら、世のお嬢様方は放っておかなかっただろう。
「ハノン。こちらにおいで」
エドゥアルドに促されて、彼の隣に落ち着く。
そんなハノンをニタニタと笑って見ているジェロームを一睨みしたが、さらに笑みを深めるだけであった。チチェスター夫人も侯爵の隣に腰を降ろすと、エドゥアルドは三人を一通り見回したあと口を開いた。
「話しを戻しましょう。チチェスター侯爵はハノンが魔女であることを知っていたんですね?」
エドゥアルドの言葉に弾かれるように侯爵を見た。
「どういうこと?」
「ハノンに黙っていたことを済まないと思っている。あの日……ハノンを家につれ帰ったあの日、私は魔女に会ったんだ。魔女は私を待っていた、ハノン、君の手を引いてね。実は魔女とは以前からの知り合いでね、私を瀕死の重体から救ってくれた恩が合った。魔女にハノンを引き取ってくれないかと頼まれた時、私はその恩を返すときが来たのだと思えたんだ。魔女はハノンという名前と記憶がないこと、言葉が喋れないこと、そしてハノンも魔女であることを告げて私に託したんだ」
魔女はハノンのことを知っていた。恐らく、ハノンが生まれた当時のことも魔女なら知っているのかもしれない。そして、ハノンの本当の両親のことも、失われた記憶のことも。
「ハノン。私たちには息子しかいなくて、けれどずっと女の子が欲しかったの。あなたが来てくれて本当に嬉しかったのよ」
チチェスター夫人の笑顔が少しだけぎこちない。ハノンが怒っていると思っているのかもしれない。
「私は感謝してるんだよ。私みたいな、どこの馬の骨ともつかない特殊な容姿をしている人間をどんな理由があったにせよ、引き取ってくれたんだから」
「ありがとう、ハノン。そう言って貰えると救われるよ。魔女はね、ハノンがうちにいた間に何度か君の様子を見に来ているんだ。本当に彼女は君を大事に思っていた。だから、ハノンが魔女に呪いをかけられた時には驚いたんだが、それにもわけが合ったようだし、ハノンが魔女と仲良くなったみたいで良かった」
チチェスター侯爵は心底ホッとしたように肩の力を抜いていた。
「チチェスター侯爵。私は、ハノンを妻に迎えたい。今すぐにではないが、私としては早い方が……」
エドゥアルドはハノンとの結婚を急いでいるように見受けられる。何かに焦っているように、何かに急き立てられているように。それを直接聞いてもはぐらかされるだけだ。
「私たちは大歓迎です。だが、エドゥアルド殿下の方は認められるのでしょうか?」
「陛下には許しをいただいている。問題はない」
どんなにエドゥアルドが問題はないと言っても、ハノンには山のように問題が阻んでいるようにしか思えない。
「ハノンは? ハノンは、殿下と結婚する覚悟が出来ているんだね?」
チチェスター侯爵の強い眼差しの前では、うそ偽りは通じない。
「エド殿下と結婚することについては、覚悟が出来てる。でも、エド殿下が言うように何の問題がないとは思っていない。だけど、その問題を乗り越える覚悟はある」
エドゥアルドとの結婚には問題はあるのだろう。けれど、だからといって尻込みしているわけではない。
ハノンは、エドゥアルドと共になら乗り越えられるだろうし、どんな辛いことがあっても、もう一人ではないのだ。
「そうか」
チチェスター侯爵はそう言っただけで、黙ってしまった。
ほうっと一息に息を吐きだすと、エドゥアルドを見た。
「娘をよろしくお願いします」
笑顔ではあったが、その笑顔には僅かな淋しさが浮かんでいた。
「いやぁ、娘を嫁に出すということが、こんな複雑なものだとは思わなかった」
「俺も。妹が嫁に行くのがこんなに複雑なら、将来娘は欲しくないな」
ジェロームが珍しく落ち込んだ風な弱い声を出した。こんなジェロームを見るのは初めてだ。ジェロームはいつも人をからかうようなにやけた笑顔をしている。それは、特にハノンに対してのみなのだが……。
「そんな大袈裟な。別に他人になるわけじゃあるまいし」
「お前は分かってない。妹を取られる淋しさがどんなものか」
そりゃ、分からないだろう。ハノンは兄ではないのだから。
けれど、自分が大切にされているみたいで嬉しかった。
「お父様、一つ聞きたいんだけど。いい?」
「言ってみなさい」
「うん。魔女サンから私の本当の両親の話とか聞いたことない? あと、私の過去のこととか」
エドゥアルドは無理に思い出そうとしなくていいと言ってくれるけど、果たして本当にそれでいいのだろうか。
もし、ハノンの両親が貴族ですらなかったら、最悪、罪人であったなら、ハノンがエドゥアルドと結婚することは良くないのではないだろうか。
知るべきなんだと思うのだ。それがもし辛いだけのものだとしても。迫りくる悪夢のようなものだとしても。




