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第30話

 気持ちの昂ぶりにより、涙がとめどなく溢れる。

「ハノン。よく聞いてくれ。ハノンがどんな過去を持とうとどんなしがらみを持とうと、私の気持ちは変わらない。私はお前を愛し、守りぬく。だから、私の元に戻って来てほしい。ゆくゆくは私の妻に……」

「妻ぁっ? 何言っちゃってんの。そんなの無理に決まってんでしょっ。うん。無理、無理無理無理無理。絶対に無理っ」

 勢い良く顔を上げたので、涙が飛散しエドゥアルドの頬にかかった。エドゥアルドはなぜかそれを嬉しそうに拭った。

「無理じゃない。もう、兄上……陛下には許可を取っている。何も問題はないんだ」

 いつの間にルシアーノに許可を取っていたのか。というか、外堀を着実に固められているような状態だ。

「問題がないわけはないと思うんだけど……」

 次期国王に望まれているエドゥアルド。ルシアーノに子供が産まれれば、エドゥアルドが王になることはないだろうと言われているけれど、いつ何時何が起こるかなんて分からないのだ。こんな不吉なこと考えたくもないが、ルシアーノが何者かに暗殺されることも、病に伏すことも起こりうることなのだ。

「私の手を取ってくれ、ハノン」

 差し出されたその手を、ハノンは長いこと眺め続けた。

 これはハノンの人生の分岐点だと思われた。この手を取ればエドゥアルドとの未来が待っている。その未来が幸福であるか、苦難なものになるかは、想像だにできない。この手を取らなければ、当然の如くエドゥアルドとの未来はない。エドゥアルドのことだ。何もなかったかのように傍に置いてくれるかもしれない。だが、それは愛を囁くことも囁かれることも許されないということだ。いわば交わることのない平行線上の人生だ。

 どちらを選んでも後悔してしまいそうな自分に嫌気が差す。

 だが、どちらとも不幸になる道であるのならば、好きな人と共に歩みたい。そう思うのは間違いではないはず。

 ハノンはもう一度エドゥアルドの瞳を見た。瞳の奥の奥、最奥を探る。自分の気持ちは固まった。最後に考えることは、エドゥアルドの幸福。エドゥアルドがハノンと共に歩くことが、彼の幸福に成り得るのかということ。

 エドゥアルドの瞳には、少しの揺るぎさえ浮かんでいなかった。これ以上ないほどの強い意志を感じられた。

 幸福になるためにこの手をハノンに差し延べているのだと、信じることが出来た。

 自分の手を胸に当て、ゆっくりと目を閉じた。耳を傾ければ鼓動を、血が流れる音を感じることが出来る。手のひらに温かさが宿っていく。それはハノンのエドゥアルドへの想い、すなわち愛が手のひらに集められているからだった。

 閉じたときと同じようにゆっくりと目を開ける。エドゥアルドはさっきと同じ状態で手を差し延べ、ハノンの答えを辛抱強く待ってくれている。

 ハノンは大きな笑みを浮かべ、なんの躊躇いもなくその手を取った。

 手を握り締めた途端にエドゥアルドの瞳が見開かれた。

 ハノンの愛がたんと込められた手のひらからは、ハノンの真っ直ぐな想いが感じ取れるだろう。ちゃちな言葉では伝えられないハノンの想いを手のひらに込めたのだ。

 魔女にこっそりと教わった魔法。

『どうしても言葉で伝えられない時はこれを使いなさい』

 そう言って。けれど、こうも付け加えた。

『けれど、言葉にすることも大事なことなの』

 だからハノンは、口を開いたのだ。

「あなたを心から愛しています。あなたの傍で生きることをどうかお許しください」

 エドゥアルドはハノンの手をきつく握り締めると、ぐいと引き寄せ、抱き留めた。

「許そう。共に生きることを。……ハノン、お前を愛している」

 ハノンは腕をエドゥアルドの背中に回し、ギュッとしがみついた。

「わあ、良かったですね。殿下」

 二人の滅多にあるものじゃない(というか初めて)、いい雰囲気を打ち壊したのは、ドアの前で拍手をしているビバルだった。その隣でアナがビバルを咎めている。せっかくいい雰囲気なのだから邪魔をするなと。

「ビバル。私の幸せを邪魔するとは何事だ」

 そうは言うものの、ハノンの体を放すことはない。

「殿下がやっとハッピーになれたと思ったらつい……。私どもがどれだけ心配していたと思っているんですか」

 ビバルにそう言われてしまえば、エドゥアルドもそれ以上強く言えなくなってしまった。

 二人の滅多にないラブシーンを諦めたエドゥアルドは、漸くハノンを解放した。

「二人をどれだけじれったい思いで見ていたことか」

 ハノンとエドゥアルドを見て、焦れったさを感じていたとは知らなかった。

 というよりも、ハノンやエドゥアルドの気持ちに気付いていたことに驚きを感じた。

「何はともあれ、良かったですね。お二人とも」

 ビバルの幸福そうな顔を見ていると、自分の選択が正しかったのだと思わせてくれる。

 返事を出した以上、前向きに物事を対処していこうと思うけれど、不安がないわけではない。

 ハノンが魔獣の姿から解き放たれたのかは、この森の中にいる限り分からない。エドゥアルドと想いを通じ合わせた今、呪いはとけている筈ではあるのだが。

 長いこと魔獣として生活していたので、人としてどうやって生活すればいいのか忘れてしまっている。

 そして、一番重要なのは、城内の人々がハノンを受け入れてくれるかどうかということだ。

「ハノン。心配いりませんよ。あなたのことは殿下だけでなく、私たちもお守りいたしますから」

 ハノンの顔が不安に歪んでいたのに気付いたのだろう。ビバルがいつの間にか目の前に立ち、ハノンの両手を握り締めて熱く宣言した。その少し後ろでアナも頷いている。

「ハノン。素直になれたのね?」

 いつの間にか魔女が先ほど座っていた席に座り、紅茶を口に運んでいるところだった。

「うん。多分」

「この森を出ても、あなたの姿は魔獣に変わることはないわ。エドゥアルド殿下、ハノンが王城に戻ったら、どんな待遇を与えるつもりなの?」

 優しい視線をエドゥアルドに向けた時には、厳しいものに変わっていた。

「暫らくは私付きの侍女になって貰う。時期が来たら婚約者として発表する」

「そう。くれぐれもハノンを宜しくね。ハノン、あなたは魔力の使い方を学ぶため、週に一度はここに来るべきだと思うわ。大きな力をコントロールしきれないのは、とても危険なことなのよ」

 再び矛先をハノンに戻すと、魔女はそう言った。

 ハノンはエドゥアルドに視線を向け、窺いをたてた。エドゥアルドがそんなハノンを苦笑しながらも頷いた。

「教えてくれるの?」

「そうね。教えるわ」

「お願いします。魔女サン」

 ハノンの力はまだ発展途上にあり、このままコントロール出来ない状態で放置した場合、近くにいる人に危害が及ぶことがある。

 エドゥアルドや大切な人々をハノンのこの手で傷つけることだけは避けたい。

「魔女サン。いろいろありがとう」

「私が好きで手を貸しているだけよ」

 魔女とサヨナラしなければならないと思うとなんだか胸の辺りがきゅうっと痛くなった。

「完全な別れではないのよ。そんな顔をしないの。あなたはこれからうんと幸せになるのだから」

 うん、頷いたが声は出て来なかった。

 エドゥアルドが魔女に挨拶をしている。その様子を涙を堪えながら見ていた。

 魔女がエドゥアルドに何事かを耳打ちしていたが、余裕のないハノンは気付くことはなかった。


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