第28話
真夜中に目を覚ましたのは、嫌な夢を見たからだった。がばりと起き上がったハノンは、夢の中で泣き叫んでいた。誰に向けているのか、何を叫んでいるのかは定かではない。ただただ苦しくて悔しくて、悲しくて虚しかった。何に対してこんな理不尽な感情を抱いているのか判然としないことに不快を感じる。
ひりつくような喉の渇きを感じて、ハノンに与えられている部屋を出てキッチンへ向かった。
記憶がないことに不安を感じるのは、嫌な夢を見たあとが一番強い。
グラスに注いだ水を一息に飲み、レディらしからぬ低い声を漏らす。
ふと視線を持ち上げた先、暗闇の中に魔女が立っていることに驚いた。
「びっくりした。脅かさないでよ。……どっか、行ってたの?」
よく見てみれば、魔女は外出着を来ていた。
もう寝ているのだと思っていたハノンは、魔女の行き先に不安を抱いた。
まさか、エド殿下の所にいったんじゃ……。
「私にだってボーイフレンドの一人や二人はいるのよ。たまには会いに行ってあげなきゃ可愛そうでしょ?」
否定は出来ない。
魔女の外見は若いままであるが、話によると大分お年を召しているらしい。外見だけでは、ハノンより十ばかり上くらいに見える。その若さと美貌があれば、若い男も振り返るというものだ。
「そうなんだ……」
「そろそろエドゥアルド殿下が恋しくなってきたんじゃない?」
魔女には何も隠せないと、ここに来てからイヤというほど思い知らされた。今さらしらを切ったところで、魔女を面白がらせるだけだ。
「恋しい……かもしんない」
「恋しくて恋しくて仕方ないくせに、素直じゃないわね?」
素直にぶちまけてしまえば、今すぐにでも会いたい。離れてみて、自分の想いがどれほど強く深いものかに気付かされてしまった。
魔女の言うとおり、恋しくて恋しくて仕方ない。ふと気付けば、エドゥアルドのことばかり考えている。
帰りたい。あの温かいエドゥアルドの腕の中に。けれど、恐ろしくもある。もう、自分の気持ちが溢れてしまいそうだ。会った途端に言葉が零れてしまう。
お前のような魔獣は好きじゃないと突き放されたら、ハノンはその先どうすればいいのか。エドゥアルドに拒否されるのが怖くて、尻込みしているのだ。もう約束の三日は過ぎようとしているのに。
「素直になるのは怖い」
「そうね。確かに怖いわ。……私は昔、素直になれなくて大事な人から逃げ出したことがあるの。今のハノンがしているようにね。あの時素直になれていたら……って今でも考えてしまう。そんなこと考えたところで、過去には戻れないのは分かっているのにね」
悲しそうな魔女に掛ける言葉が見つからない。普段は他人に弱みを見せようとしない魔女の俯いた瞳に光るものが浮かんでいた。
「ごめんなさい。あなたの今の状況があまりに過去の自分と重なるものだから」
瞳に浮かぶ涙を手の甲で拭うと、ぎこちない笑顔を向け、おやすみ、と言って足早に去っていった。
魔女の弱さを初めて目の当たりにした気がした。
当たり前のことだが、魔女にも過去があり、それらは必ずしも明るいばかりではなかったのだ。いつも強そうに振る舞っている人間の方が、心に一物も二物も抱えているように思う。
ハノンにはまだそれがない。記憶を失う前にあったのかもしれないが、自覚がないのはないのも一緒だ。
怖がってばかりじゃダメなのかもしれない。逃げるばかりじゃダメなのかもしれない。
魔女が、自分の過去をハノンに曝してまで伝えたかったことがそれなんだろう。
魔女と話したことで嫌な夢の余韻はなくなっていた。もう、眠れそうだ。ハノンはキッチンを出た。
翌朝、家の裏にある畑で野菜を収穫していた。ここへ来てから、ハノンとアナが野菜の収穫をするのが日課になっていた。
「アナ。そういえばさ、ここに来て初めて魔女サンと話したとき、何か言われてたでしょ? あれって何だったの?」
あの時、魔女はアナに、あなたがそうじゃないかなと考えていることは正しい、というようなことを言っていたはずだ。
「それは……」
アナがずっと心の中で考えていたことで、こんな風に言い淀むことには思い当たることがある。
「魔女サンは私が黒の魔獣だって言ったんだね?」
引き抜いたニンジンを片手に持ち、顔だけを上げてアナを見た。
「それは……」
「もう隠さなくてもいいんだよ。なんで私が黒の魔獣なんだか分かんないけどさ。魔女サンはそう言ってんでしょ?」
魔女はハノンのことを、ハノンよりも知っていると言っていた。ハノンが知らないことでも魔女がそう言うのなら、そうなのかもしれない。
「そうです。けど、詳しいことは何も教えてくれませんでした」
「私ってなんなんだろう? 何者なんだろう? アナ、私なんだか怖いんだ。自分を知らない自分が。私、本当に黒の魔獣なのかな……」
自分の失われた過去を取り戻すべきなんだろうか。取り戻せたら、この不安や恐怖は消え去るんだろうか。
「アナ。私、聞いてくるよ。自分のこと、ちゃんと知るべきなんだと思うんだ」
「はい。では、あとは私がやっておきますから……」
そう言ってハノンを送り出してくれた。
魔女の朝は極めて早い。ハノンの勝手なイメージでは、朝寝坊をしていそうだが、ハノンたちが起きる大分前には目を覚ましている。
家に戻ると魔女は、ソファに腰掛けて、編み物をしているところだった。ここに来た当初から編み続けている代物だ。
「聞きたいことがある」
「まあ、何かしら?」
編目から目を離すことなくそう問いかけた。
「私は黒の魔獣なんだよね?」
漸く視線を上げた魔女は、編み物を傍らに置くとテーブルに移動し、ハノンに正面の椅子に座るように促した。
ハノンの質問に答えず、無言のままお茶の準備を整えていく。その一連の動作をハノンも無言で見つめていた。
「さあ、召し上がれ」
魔女の入れる紅茶は美味しい。同じように入れたつもりでも、どうしても辿り着けない。
「いただきます」
「あなたはね、黒の魔獣よ。そして、魔女でもある」
「は?」
黒の魔獣であることを肯定されるであろうことは想定内であったが、最後の言葉は全くの想定外であった。
「あなたは黒の魔獣であり、魔女なのよ。だけど、あなたは魔法の勉強をしてこなかったから、魔女といってもろくな魔法は使えないけれど」
ハノンが茫然としている間も、魔女はぺらぺらぺらぺらとハノンそっちのけで、話を進めていく。
「黒の魔獣というのは代々魔女が魔女によって呪いをかけられたために存在するものなのよ。初代の黒の魔獣は悪い魔女に呪いをかけられたことで出現した。最初だけはね。けれど、それがいつの間にか魔女たちの習わしになってしまった。黒の魔獣が長い間現れなかったというけれど、本当はいたのよ。ただこの国があまりに平和なものだから、その力を使う場面がなかったというだけのこと」
ちょうど話の区切りがついたそのとき、突然ドアが乱暴に開かれた。
「本当なのかっ、その話」
荒々しく開けられたドアの前に立っていたのは、ハノンが会いたいと思っていた人だった。