第27話
執務を終え、自室のドアを開ける。
いるはずのない黒い魔獣を無意識に探すのはもはや癖になりつつある。
ハノンが魔女の家に滞在して三日がたっていた。
このままハノンはここには帰って来ないんじゃないかと考えると怖くて眠れない。
いつもあったハノンの温もりを感じずには、すでに眠れなくなっていた。エドゥアルドが隈をこさえて執務室に入るたびに、ビバルが複雑な表情を浮かべる。
今夜も恐らく眠れない夜を過ごすことになるのだろう。
「眠れないようね、エドゥアルド殿下。そんなにハノンが恋しいのですか?」
ふと感じた気配と声に後ろを振り返ると、魔女が微笑を浮かべ立っていた。
「いつの間に部屋の中に……」
「私は魔女ですから」
再びにっこりと微笑む黒髪の魔女が一瞬ハノンの笑顔と重なりどきりとした。
「急に伺って申し訳ありません。でも、殿下には話しておいたほうがいいと思いまして。ハノンのことを」
「今、私が聞くべきことなのか?」
出来ることなら、ハノンの口から直接知りたいと思った。だが、もしかしたらハノンも知らない事実なのかもしれない。
「聞きたくないなら聞かなくてもいいと思うわ。ハノンを傍におくつもりがないなら、聞く必要はないでしょう。私は殿下がハノンを……。そう思ったんですが、検討違いだったかしら?」
「その答えは敢えて言わなくても分かっているんだろう?」
魔女はその答えを肯定するように肩をすくめた。
もう大分前から自覚はあった。常に傍にいるハノンを無条件に愛おしく思ったり、彼女のためにどんなことでもしたいと思ったり、クライヴが彼女に好意を寄せていると知り焦りを感じたり。そして、ハノンと離れてより強く感じた。自分の中にある熱い想いを。
本当なら今すぐにでも迎えに行きたいくらいだ。
「全て話して欲しい。あなたが知っていることを全て」
魔女の話は遠い過去の出来事から始まった。
「百年に一度、黒の魔獣は現れる。その姿は美しく、そしてその力は人の想像を卓越するほどのもの。人々はその力を欲しがり、傍に起きたがった。まあ、人の間ではそう言われているわね。ハノンは黒の魔獣よ。ハノンには自分でも想像できないほどの力を持っている。この国は侵略なんて血生臭いことをしていないから、本当にハノンの力を欲している人間はいないけれど、ハノンの存在が他国に知られればどうなるか、聡いあなたなら分かるわよね」
ハノンが黒の魔獣であることに対しての驚きはなかった。
この国が平和で良かったと心底思う。エドゥアルドがハノンをしっかりと守れば、彼女が苦しむことはないということだ。
「ああ、ハノンは私が必ず守る。……ハノンは、魔獣なのか? それとも人なのか?」
「ハノンは人よ。黒の魔獣というのは本来は人であるものなの。呪いをかけられた人。ハノンのようにね。ハノンが人に戻れば、他国から守る必要はなくなる」
歴代の黒の魔獣は、ハノンのように呪いをかけられた人間が黒の魔獣に祭り上げられたということか。
「なぜハノンが黒の魔獣にならねければならなかったんだ? ハノンじゃなくても……」
「ハノンじゃなければならないのよ。それが使命なのよ、あの子の」
ハノンになんの使命があるというのか。
ハノンはただの少女だ。その華奢な肩に誰がなんの使命を与えたというのか。
「呪いはなんだ。ハノンの呪いはいったいなんなんだ? なぜ私に話せない」
「それはあの子に聞けばいいと思うわ。直接ね」
ここまで話を聞いてきて、魔女がハノンに悪戯に呪いをかけたわけではないことが分かってきた。怒りに任せた行いではなく、魔女の言うところの使命によってハノンを魔獣に変えた。
「あなたは一体何者なんだ? なぜハノンのことを知っている」
魔女は意味ありげににやりと笑った。
「私は……」
魔女は言いかけて、突然ぴたりと口を閉ざした。
そして、くすりと口元だけで笑ったあと、改めてエドゥアルドを仰ぎ見た。
「いけない。あなたが大好きなハノンが起きてしまったようだわ。残念だけど、この続きはまたの機会に」
そう言ってスッと立ち上がった。
全てを聞けていないエドゥアルドはまだ不完全燃焼といったところだった。
呼び止めようと立ち上がったエドゥアルドに、魔女は振り返り言った。
「ああ、言い忘れていたわ。ハノンの呪いはもうすでに解けている。大分前、ここにいる頃にはもうね」
「じゃあ、なぜ人の姿に戻らないんだ?」
「呪いというのは、暗示みたいなものなのよ。ハノンがまだ自分は人に戻るわけがないと思いこんでいるからでしょうね」
それだけ言うと魔女は部屋を後にした。
エドゥアルドは魔女を咄嗟に追いかけたが、廊下にはすでに誰の姿もなかった。諦めて自室に戻るとソファに身を投げ出した。
魔女がたった今告げたことを整理しようと、目を閉じた。
ハノンが何者であるのかなど、もはやエドゥアルドにはどうでもいいことだった。ハノンが自分の隣で笑っていてくれさえすれば、あとのことはどうにでもなると思っていた。
ハノンの呪いはもう既に解けていると言っていたが、そもそもどんな呪いをかけたのか結局言わずに帰ってしまった。何だかんだと言って魔女から得た情報は少なかったように思う。恐らくまだ胸にしまってある情報がいくつもあるのだろう。
その情報は恐らくハノンにも知らされていないのではないか。
焦らされて気分が悪くなって良さそうなものだが、面と向かって話した魔女の印象は案外良かった。魔女からは、ハノンを思いやる気持ちが汲み取れたからだろう。ハノンに真実を伝えていないのは、魔女の優しさからくるものだと思えてならない。
どんな理由があるにせよ、魔獣に変えた張本人なのだから、そう思うのはおかしいのかもしれないが。
「これから私はどうすればいいか……」
ハノンが王城に帰ってくることはないのかもしれない。あのままなし崩しに魔女の家で暮らしていくのかもしれない。
そう思い至って、あまりの苦しさに胸をかき抱いた。
誰かをこんなにも欲したことも、惹かれたことも、慈しんだこともなかった。女性を愛しいと思ったことはない。
結婚はお互いに利益になる政略結婚になることに疑問一つ抱かなかった。王族である以上、国王の利益になるための犠牲は当たり前だと思っていた。だが今、ハノン以外の女性と結婚するなんて考えられなかった。
そう心が定まると、いてもたってもいられず部屋を出た。
逸る気持ちをどうにか誤魔化し、だが、足は先へ先へとせっつくように動かされていく。
その部屋の前に立った時、エドゥアルドは大きく息を吐いて心を静めた。
ドアの前に立つ衛兵に急ぎの話がある旨を伝えると、夜という非常識な時間にもかかわらずすぐに部屋へ通された。
ソファに座る二人の表情は寛いだもので、昼間のものとは大分違う。
「こんな時間に申し訳ありません、兄上。お許しを頂きたいことがあります」
ルシアーノがエドゥアルドを見上げると頷き、先を促した。
「ハノンを迎えに行くための休暇を頂きたい。そして、ハノンを妻に迎える許可も頂きたい。私には、ハノン以外考えられないのです」
「「私も(だ)」」
重なり合ったルシアーノとレイラの声に下げていた頭を上げ、二人を見据えた。
「私もお前の妃になるのならハノンしかいないと思っている。早く迎えに行け。捕まえてこい。そして、もう二度と放すんじゃない」