第25話
大ウサギの歩幅は広く、背景はすごい早さで通り過ぎていた。
やがて魔女の家は見えてきた。
森の中にひっそりと建つその家は、驚くほど小さい。家の前には、薬草かなにかが栽培されている。
大ウサギはハノンとアナをドアの前に下ろすと、何も言わず森の中へと消えてしまった。
「ありがとう」
聞いているのかいないのか分からない大ウサギの背中にぶつけた。
大ウサギの背中を見送ると、ドアに向き直った。
ノックをしようと手を上げたとき、家の中から声がかかった。
「入っておいで、二人とも」
びくりと肩を強ばらせたが、勇気を出してドアを開けた。
「お邪魔します」
家の中は外見から見た感じとは違って、広々としていた。家の中になんらかの魔法がかけられているのだ。
「こっちにいらっしゃい」
魔女はソファに座って縫い物をしていた。
魔女が縫い物をしていること自体、驚くべきことだ。魔法一つですぐに出来てしまうだろうに。
「魔法は怠けるためにあるものじゃないの。魔女は魔法ばかり使っているって思ってたのね。こっちに座りなさい。今、お茶を入れるわ。……大丈夫。毒は入れないから」
初対面の印象と大分異なる。こんなにお喋りだったろうか。
楽しそうにお茶の用意をする魔女が、ハノンを魔獣にしたとは思えなくなってきた。
「ハノン。魔獣生活はどう?」
どうしてこんなに軽い感じでそんな質問が出来るんだろう。
「どうって、いいわけない。早くこの呪いを解いてよっ」
魔女はティーセットをテーブルに置くと、ハノンの怒声など聞かなかったかのようにカップに紅茶を注いでいく。
「心配していたのよ。あの男があなたの前に現れたのね。今は気付いていないようだけど……」
人数分の紅茶を用意し、アナとハノンの前に出した。
ハノンの顔を見上げ、にっこりと微笑んだ。
何か大事なことを言われたような気がするのに、たった今言われたことをなぜか思い出せない。
何かを言おうと口を開くが、言うべきことが見つからず、諦めて口をつぐむ。
そんなハノンに魔女が言う。
「クッキーも食べなさいね。毒はもちろん入ってないわ。私があなたを殺すわけないもの」
魔女は不思議だ。
なぜこんな優しい笑顔が出来るのか。これも何かの罠なんだろうか。
「なんでクライヴ殿下を唆したのよ? どうして毒を渡したの? 何のため?」
「あなたは私が本当にそれをしたと思うの?」
魔女じゃない。直感的にそう思った。
クライヴが魔女だと言ったからそうであると信じていたが、そうじゃなかったのかもしれない。だが、クライヴが嘘を吐いていたとも思えない。それが導きだす答えは、何者かが魔女に扮してクライヴに近付いたということだ。
「ハノン。大丈夫です。毒は入っていません」
ハノンが考え事をしている間に、アナは出された飲み物と紅茶を口にしていたようだ。
「アナ。毒味なんてしなくていいんだよ。もし、アナに何かあったらどうするの」
「ハノンを守ることが私の仕事ですから」
そんなハノンとアナの会話を魔女はクスクス笑って見ていた。
「ハノンを守ることに一生懸命なあなたに一つ教えてあげる。あなたがずっとそうじゃないかなと考えていること、それは正しい」
アナに向けて魔女が語る。アナは魔女の動く口を見て、徐々に目が見開かれていく。
「それって……」
「そうよ。今、あなたが考えていることは正しいということ」
「まさか……」
アナは信じられないという風に頭を左右に振った。
アナもまた何かを言いたいのに、どう言っていいのか分からず、結局口をつぐんでいる。
「何? なんなの?」
アナに問いかけるが、答えが返ってくる気配がないので魔女に視線を向ける。
「あなたはまだ知らなくていいのよ。あなたはどうしたらエドゥアルド殿下の心を虜に出来るか考えていればいいの」
「魔獣の姿で好きになってくれって方が無理な話しなんだよ。お願いだから早く呪いを解いてよ」
「えっ。ハノン?」
アナの驚いた声がハノンと魔女の会話を阻んだ。
「今のってもしかして……」
「あら、あなたは知らなかったわね、私がハノンにかけた呪い。ハノンにかけた呪いはね、一番初めに名前を告げた人間と恋に落ちないと解けないの。だから、ハノンはエドゥアルド殿下と恋に落ちないと一生魔獣のままね」
ハノンにかけられた呪いを知っているのは、クライヴとチチェスター家の面々だけだ。
エドゥアルドにはもちろん言えるわけないし、エドゥアルドの近くにいる人には、そこからエドゥアルドに洩れるんじゃないかと思うと言えなかった。
「ハノン。本当に逃げるつもり?」
魔女には、全てのことが見えているようだ。
ハノンの心の奥まで見透かされているようで、心許ない。魔女の言うとおり、ハノンはエドゥアルドから逃げ出そうと考えていた。本当に好きになる前に、好きになって貰う努力をする前に、全てを忘れさろうと。
傷付くのは怖い。
「逃げてもいいのよ。なんならここで暮らしてもいいわ」
「どうして? あなたは優しいの、優しくないの? どっちなんだか分かんない」
魔女の態度に振り回されていた。それもそのはず、ハノンはこれまでごく限られた小さな世界でしか生きてこなかったのだ。人のウソや建前、わだかまり、そんな複雑なものを見抜くことはできない。
駆け引きは苦手だ。
「私は別に優しいわけじゃないわ。ただ、帰りたくないならここにいればいいと言っただけ」
「ハノン。ここに残るつもりですかっ。殿下が心配します。どうか、私と一緒に帰りましょう」
ハノンと魔女の先行きが危うい会話に焦りを感じたアナが必死にハノンの気を引こうとする。
ハノンにとって、魔女の申し出はとても魅力的なものだった。
「試しに二、三日泊まってみたらいいのよ。エドゥアルド殿下に無断でここに泊まるのがいやなら、話せばいいわ」
アナを見た。そのあと魔女を見た。そして、再びアナを見た。
「アナ。少しだけエド殿下がいないところで考えてみたいの」
エドゥアルドの近くにいすぎては見えないものがある。それを落ち着いて見極めたい。
「……もし、殿下がお許しになるのなら、私は何も言えません」
アナは唇を噛み締めながら、憎々しげにそう言った。魔女はハノンについてくるように言うと、大きな水瓶の前に立った。
「エドゥアルド殿下のことを思い浮かべながら、水瓶を覗いてごらんなさい」
目をつぶり、エドゥアルドの笑顔を思い浮べてから水瓶の中を覗き込んだ。
見慣れた王城の廊下をエドゥアルドが足早に歩いていく、何かに焦っているような、怒っているような、そんな印象を受けた。
「ハノンがいないことに気付いたようだね。呼び掛けてごらん」
「えと、エド殿下。エド殿下っ」
ハノンの声が聞こえたのか、エドゥアルドがキョロキョロと辺りを見回している。
「池に来るようにと」
魔女に促されるまま、エドゥアルドに池に来てほしいと告げた。
エドゥアルドが走りだす。
「ハノン、私の手を掴みなさい。これから、魂だけ王城に向かうわよ。アナ、危険はないから心配しなくていいわ」
魔女がアナの方を向いたのに倣うようにハノンもアナを見た。
可哀想なくらい顔が青ざめていた。自分でも不安で仕方なかったが、アナを安心させる為に微笑んで見せた。
あとでたくさんたくさん謝らないと。ちゃんと帰るって言ったのに、破るようなことしてごめんと。
「ハノンを危険な目に合わせたら承知しません」
ふふんと魔女は鼻を鳴らした、そんな事態になるわけがないと絶対的な自信があるようだ。
「それじゃ、王城まで」
魔女が指をぱちりとならすと、ハノンの魂は一瞬のうちに飛んだ。魂だけがあの王城の池へと。