第23話
目が覚めたのに起き上がれなかったのは、耐えられないほどの激しい頭痛に苛まれていたからだ。
「つぅっ」
前足で頭を抱えるが、そうしたところで痛みが消えるわけがないのは分かっていた。
「ハノン。大丈夫か?」
馴染みのある大きな手がハノンの頭を優しく撫でる。
「エド殿下。……頭、イタイ」
「そうか。さっき薬を飲ませたから、ゆっくり休めば楽になるだろう」
魔獣用の薬か、人間用の薬か、と尋ねたかったが尋常じゃない頭痛にそれも諦めて、再び目を閉じた。
エドゥアルドの手の感触だけを意識していた。その手を感じていることで、いくらか痛みが軽減されるからだ。
「どうだ?」
ハノンが目を開けたのを見透かしていたように、エドゥアルドの声が耳に飛び込んできた。
「……エド殿下?」
ハノンの頭に乗せられた手がゆっくりと撫でていく。
ずっとそうして撫でてくれていたのだろうか。
「そうだ。頭の痛みはまだあるか?」
頭の痛み……。
「ない……みたい」
「そうか。良かったな」
エドゥアルドが優しい。
普段から優しい人ではあるが、通常より五割増しといっていいほどだと思う。
「私、どうしたのかな?」
「アナの話では、オルグレン大公と話している途中で突然倒れたということだが、覚えていないのか?」
オルグレン大公……。アナがオルグレン卿と呼んでいた人か。
その名前と姿を思い出し、側頭部がずきりと痛んだ。痛みに低いうなり声を上げると、エドゥアルドが慌てて制止した。
「この話は今度にしよう。今は何も考えるな。何も思い出すな。いいな?」
側頭部の痛みは一時的なもので、すぐにその痛みが消えた。
「エド殿下が優しくてキモい」
「心配している者に向かってキモいとはなんだ」
「だって、普通使役獣にそこまで優しい主はいないと思うよ」
使役獣は使役されてなんぼなんだ。だが、ハノンがエドゥアルドに何らかの指示を与えたことはない。
「お前は今こそそんな姿をしているが、実際は人なんだ。普通の使役獣とは違う」
人の姿に戻りたいと思う。だが、どこかで戻りたくないと思っている自分がいるのも確かなのだ。
エドゥアルドとのこの距離が丁度いい。ハノンが人に戻れば、この距離は解消されてしまう。エドゥアルドは将来有望な国王候補であり、ハノンは一侍女に過ぎないのだ。
人になれば、容易に言葉さえ話せなくなる。容易に隣さえ歩けなくなる。容易に触れてさえくれなくなる。
これ以上近付いてはいけないのかもしれない。この距離が丁度いいと甘んじていてはいけないのかもしれない。
魔獣を愛する人間などどこにいようか。人にも戻れない。万が一、人に戻ったとしても隣にはいられない。ならば、最初から離れていたほうが自分が傷付かずに済む。
ハノンとエドゥアルドが話す声が聞こえたのか、ビバルとアナが寝室に入ってきた。
「ハノン。大丈夫ですか? 一緒にいながらハノンの異変に気付きませんでした。申し訳ありません」
アナが丁寧にハノンに謝罪をするのを見て、なんだか寂しい気分になる。
侍女に対して、ただの使役獣に対して頭など下げるものはいない。アナはまだハノンが黒の魔獣である可能性を捨ててはいないのだと、再認識させられる。
「アナ。頭なんか下げてほしくないよ。アナは悪くないんだから」
頭を恐る恐る上げたアナは、可愛そうなほど涙目だった。
苦笑がもれる。
どんなに誰よりも近い同姓の友達とこちらが思っていても、アナはそんな風には思ってくれないんだ。
「アナ。お前が悪いわけじゃない。自分を責めるな」
エドゥアルドの言葉に少しだけ力を抜いたように見えるアナ。
「ハノンの調子はどうですか?」
「もう大丈夫のようだ」
「では、殿下。執務が立て込んでおりますので……」
ビバルの威圧的な笑顔にエドゥアルドが引きつった笑みを漏らし、あからさまな溜め息を漏らしたあと、ビバルに引き摺られるように出ていった。
二人が去った室内は、重苦しい空気が一時流れた。
意識を失う前、女の子同士で恋バナをしたのが嘘のようだ。
「アナ。どうしてそんなに自分を責めるの?」
「私は殿下よりハノンをお守りするように命じられています。それなのに、ハノンが倒れるような事態を引き起こしてしまった」
「アナがエド殿下に指示されたのは私の護衛でしょ? そこまで気を配れないでしょ」
「ですが……」
エドゥアルドにどんな指示を受けていたのか。恐らくただの護衛ではないのだろう。
「そんなに私に後ろめたいなら、一つお願いがあるの」
自分は卑怯だ。
ここでこんなお願いをすれば、アナを困らせることになる。
だが、普段のアナになら拒否されるこの願いも、今なら受け入れられるかもしれない。
「私を少しの時間でいい、外に出してほしい」
「それはっ、出来ません。危険ですし、殿下が許すわけありません」
そう言うのは分かっていた。反対されるのは百も承知だ。
それでも……。
「エド殿下にばれないようにする。逃げるわけじゃない。必ず帰ってくる。……会いたいんだ、あの魔女に。私をこんな姿に変えたあの魔女に」
本当はもっと早く会いに行きたかった。会って聞きたかった。なぜハノンを魔獣にしたのか。なぜハノンだったのか。
あの時、確かにハノンに非があった。だが、あの魔女の悪い噂はあまり聞かないのだ。
悪戯好きではあるが、人が本当に嫌がることはしない。穏やかないい魔女だと言う者までいた。
話を聞くかぎりでは、あんなに簡単に怒るとは思えないのだ。
何かがあるんだ、きっと。ハノンを魔獣に変えた理由が。
「いけませんっ。魔女に会ってどうするというんですか? 危険すぎます。ハノンをそんな姿に変えた人なんですよ。また何か呪いをかけられるかも知れません」
「会わなきゃならないんだよ。遅かれ早かれ私は魔女に会いに行く。もし、アナが反対するなら、私はどんな手を使ってもここを抜け出す」
ごめんね、アナ。私はあなたに酷い事をしているね。
ハノンとエドゥアルドに挟まれて悩んでいるのが分かる。エドゥアルドに従わなければならない身分にいるのに、ハノンに誠実でいようとしてくれる。そんなアナを利用しているのだ。
「アナ。お願い。どうしても会いたいの」
今なら寝ていると思わせて抜け出すことが出来る。
「一人では……。一人では行かせるわけにはいきません。行くなら、私も行きます」
「でも、そしたらエド殿下に叱られるよ」
「一人で行かせたらもっと叱られます。これでも近衛兵ですから、あなたを守ります」
「ありがとう、アナ。絶対にエド殿下に叱られないようにするから」
一度やると決めたアナの表情は驚くほど強かった。
「では行きましょう。誰にも見つからないルートを知っていますから、そこから城外に出ます。ハノン。あなたは病み上がりなんです。少しでも具合が悪くなれば、強制的に引き返しますいいですね」
ハノンは大きく頷いた。
アナの手引きで見たこともない廊下に入り込んだ。アナが突然立ち止まったと思ったら、壁にかけていた絵画をめくった。そこにはボタンがあり、アナは迷いなくそれを押す。
壁が動き、地下へと向かう階段が出現した。アナは壁に掛けられていたランプを手にすると、手慣れた手つきで火を灯すと、迷いもなく先に階段を下っていく。
ハノンがアナを追って階段に足をかけた途端に後ろで扉が動きだし、完全な闇が訪れた。
その闇がなんだか懐かしい気がした。
怖いはずなのに、どこか安心するような不思議な気分だった。
闇がハノンを味方しているような気がした。