第22話
「ハノン。今日は会議があって貴族が多く王城にくるから、あまりそとに出ないほうがいいな」
朝食を口に運ぶエドゥアルドが言った。
「ええっ、庭に出るのもダメ?」
「まあ、庭くらいならいいんじゃないか? 散歩する者はいないだろうからな」
貴族がハノンを見たら、黒の魔獣だと騒ぎかねない。王城に住み着いている者には、顔の知られているハノンであったが、知らない者のほうがまだまだ多い。
ただの黒毛の犬だと思ってくれれば問題はないのだが。
「アナは会議出ない?」
「はい。私は一介の近衛兵ですから」
「じゃあ、散歩に付き合ってくれる?」
「いいですよ。けど、朝は鍛練がありますので午後からでもよろしいですか?」
アナは毎日鍛練を欠かさない。引き締まった肉体は、丁度いい按配に筋肉がつき、かといって女を感じさせる色香はそなえもっていた。
「うん」
「アナはさ、恋人とかいたりするの?」
午後の庭は温かくて気持ちがいい。
芝生の上に身を投げだして、ウトウトとし始めていた。そのだらしない格好で寛いでいるハノンの隣で、アナは足を投げ出して座っていた。
眠気の中でふいに浮かんだ疑問だった。
「恋人はいませんけど、お慕いしている方はいますよ」
急に目が覚めて飛び上がった。ハノンの質問の答えは、きっと興味がないといったものだろうと考えていた。イヤ、ただ単にハノンが勝手にそう思い込んでいただけなのだが。それだけに、意外な答えが返ってきたことに少々失礼な反応をしてしまった。
「アナ、好きな人がいるの?」
「ええ、いますよ。いないと思っていましたか?」
「イヤ、……うん。ごめん、そういうのには興味がないと勝手に思ってたよ」
失礼なことを考えていたことを暴露して素直に頭を下げた。
「その人は、王城に住んでるの?」
ハノンの矢継ぎ早な質問攻めに戸惑いながらも、頬を染め、口元は緩んでいた。
失礼ながら初めて感じたアナの乙女な反応に、可愛らしさを感じ、もっと追い詰めたいと思ってしまった。
「はい。実は住み込みで働いている料理人なんです」
近衛兵が料理人と会うことはあまりないように思える。料理人は基本的に厨房の中にこもりきりだし、給士をするのは見習いくらいなものだ。
「料理人の見習いなの?」
「いえ、見習いではないです。食堂で顔を合わせたことはないですから」
では、一体どこで出会ったんだろう。
「ねぇ、アナ。聞かせてっ。どうやってその人と会ったの?」
思い起こしてみても、ハノンとアナが恋バナをしたことは今までになかった。それどころかハノンにとって、誰かの恋バナを聞くことは史上初の出来事なのだ。
「恥ずかしいですけど……、ハノンにならお話しましょう」
他人の恋バナがこんなにウキウキするものだとは、思ってもみなかった。
「私が毎朝訓練場で鍛練しているのは知ってますよね? まだ私が近衛兵に成りたての頃、男性に体力だけで負けているのが悔しくて、過剰な鍛練をしてしまったんです。食事も食べずにただひたすら体を鍛えて。ある日とうとう空腹を我慢できず、ふらふらになりながら食堂へ向かいました。けれど、限界だったんです。食堂につく前に倒れてしまいました。そんな私を救ってくれたのが彼でした。料理人たちが使う仮眠室まで運んでくれて、起きたら食事を食べさせてくれたんです」
その料理人のことを思い出しているのか、幸せそうに微笑むアナを見ていると、ハノンまで幸せを感じる。
「いい人なんだね?」
「はい。人柄も良くて、料理の腕も抜群なんです。副料理長なんですよ」
ハノンは、食堂に行ったことがないので、料理人と言われる人々に会ったことがない。会ったことはないが、日々ハノンが食べている食事はもしかしてアナの想い人が作っているかもしれないのだ。
そう思うと、これからの食事が楽しみになってくる。
「アナはその人に好きって言わないの?」
「どうでしょう。言いたくなったら言いますけど、今ではないですね」
ハノンはそんなに自由に王城内を歩き回れないが、機会があったら会ってみたいと思った。
「上手くいくといいな」
「ありがとう、ハノン」
なんだかくすぐったくて、ニシシと笑ってみた。
「さあ、ハノン。なんだか雲が出てきました。雨が降らないうちに中に入りましょう」
いつの間にかすぐ近くには真っ黒い雲が迫って来ていた。雨どころか雷も鳴りそうな雲行きになってきている。
アナと連れ立って建物の中に入ると、それを待っていたかのように勢いよく雨が降ってきた。地面を叩くように降りつける雨は、見ていて小気味いいくらいだ。
「危なかったね。ギリギリセーフ」
通り雨だろう、その証拠に雲がやってきた方角を見ると、そちらはすでに青い空が覗いていた。
「濡れなくて良かったです」
外廊下を歩くと、横殴りの雨が廊下へと舞い込んでくる。そこを足早に過ぎるとホッと息を吐いた。
「スゴい雨だね。ここは通らない方が良さそうだ」
外の激しい雨の降り具合を見て、アナとぼんやりと眺めている時だった。
振り返ると背の高いダンディーな男が、ハノンたちと同じように外を眺めていた。
「オルグレン卿。お久しぶりでございます。会議は終了したのですか?」
「久しぶりだね、アナ。会議は終わったんだが、この雨じゃ馬車に乗り込む前にびしょぬれになりそうだ」
足元からハノンの体が氷になったように、冷たくそして動けなくなっていた。
目の前に広がる貴族間の当たり障りのない光景に何故か目が放せない。
「おや、このイヌコロはアナのペットかな?」
「いいえ、この子はエドゥアルド殿下の飼い犬です」
王城内の一部の人間を除いて、ハノンはエドゥアルドのペットで通っている。
オルグレン卿と呼ばれた男は、ハノンの前にしゃがみ込むと、ハノンの頭を撫でた。
その手が怖くてしかたなかった。オルグレン卿は穏和な顔をした優しい笑顔の持ち主だった。それなのにハノンは縮み上がるような恐怖を感じていた。この場から逃げ去りたいのに、足が竦んで一歩さえも出すことが出来ない。
アナはハノンがそんな恐怖に苛まれていることにも気付かず、笑顔でその光景を眺めていた。
「なんて綺麗な犬なんだ。美しい黒髪だね。……色も、触り心地までそっくりだ」
小さく呟かれた最後の言葉にハノンはオルグレン卿をただただ見つめた。
『お前などっ。お前みたいな不吉な子が私の娘なものかっ』
ハノンの頭に急に浮かび上がる映像。
突然光を当てられたのか目の前にいる人物が誰なのか、目をこすっても見えない。
覆い被さるような影、そして吐き捨てられる言葉。頭に感じる鈍い痛みと、歩き去る足音、ドアがしまる音と、訪れる静寂、そして再び訪れる闇。
暗い暗い闇の中で、ハノンはただ誰かを求めている。
苦しくて、悲しくて、孤独で、怖くて、寒くて……。
誰か……、誰か助けて……。
そう叫びたいのに、叫べない。誰かを呼びたいのに、呼べない。
どこまでも闇で、どこまでも孤独で、どこまでも続く無。
分からない。どうして? 分からない。
自分が生きていることすら分からない。自分がどんな人間なのか分からない。自分が誰だか分からない。
私は誰……?
私は何……?
私は……。