第16話
ハノンの心は重石が乗っているかのようにずっしりと重かった。
エドゥアルドの自室のバルコニーから庭に出て、空を見上げた。
魔獣になって(ペットサイズ)から見上げる空は驚くほど遠くに感じる。
空はハノンの心境とは逆にすっきりと晴れていた。
これからハノンは、エドゥアルドに連れられて国王の元へと向かうことになっている。
エドゥアルドでも、国王が何を考えてあるのか分からないようだ。
国王の噂は数多く聞くけれど、手腕に対しては文句の付けどころはないが、人間的に欠陥がある、というのが大体のところらしい。どんな欠陥があるのかは、誰も教えてくれなかった。
「ハノン。そろそろ行くぞ」
バルコニーに顔を出したエドゥアルドの表情も幾分冴えないようだ。
兄弟をもこんな顔にさせてしまう国王という人は一体どんな人なんだ。
「はーい」
バルコニーに立ってハノンを待っているエドゥアルドは、いつもより畏まった格好をしている。普段は意識させない王弟殿下という身分を改めて感じる。
魔獣は服を着る必要もなく、国王に会う公的な場面でもぴらぴらのフリフリのキラキラのドレスを着なくて済む。それがハノンにとって唯一有り難いところだ。
「行きますか?」
「ああ、行くぞ」
「エド殿下。先に謝っておくよ。国王陛下に失礼なこと言ったらごめんね」
ハノンが国王に失礼なことを言わない可能性は極めて低い。
「まあ、覚悟はしている。それに魔獣は普通人間界のしきたりや礼儀なんて知らないもんだ。陛下も大して気に留めないだろう」
確かに、魔獣が妙に礼儀正しくて、国王を敬っていたら逆におかしいだろう。
そう考えたら、少しばかり気楽な気分になった。
明らかに肩の力が抜けたハノンを見たエドゥアルドが、フッと笑った気配に気付いて顔を上げる。
思いの外穏やかな笑みを浮かべている。
「お前のおかげで私も力が抜けたよ」
「ふっ、有り難く思えっ」
あまりに優しいエドゥアルドの笑顔に、居たたまれなくなり、顔を反らして暴言を吐いた。
「そうだな。有り難う、ハノン」
急にしおらしく感謝の言葉を述べるエドゥアルドに面食らった。振り返ってエドゥアルドを凝視すれば、困ったように口角を上げた。
「陛下に会うのは私にとって、喜ばしいことじゃない」
昨日もそうだった。エドゥアルドが国王の話をするときは、決まってしかめっ面になる。
クライヴといるときも、クライヴの話をするときもそんな顔、一度もしたことないのに。
何かあるんだろうか。何かあったんだろうか。
「お兄様に会えるのに嬉しくないの?」
エドゥアルドは、答える代わりに自嘲気味に小さく笑った。
聞いてはいけないことだったんだ。聞いてすぐに自分を責めた。
「さあ、行こう」
ハノンが自分を責めて俯いているのに気付いたのか、エドゥアルドがいつもの調子で声をかけた。
目の前にいる国王ルシアーノは、エドゥアルドとクライヴのお兄さんだけあって美貌の持ち主だった。
エドゥアルドがキラキラしたオーラ、クライヴが儚いオーラだとすれば、ルシアーノは冷酷なオーラが漂っていた。冷酷というのは少し言い過ぎかもしれない。クール、知的という言葉のほうがあっている。
「君がエドゥアルドの使役獣だね? ルシアーノだ。よろしく」
最初の冷酷なイメージとは正反対な柔らかい笑みだった。そして、声が何よりやさしい。
「ハノンです。よろしくお願いします」
ルシアーノが目を見開いている。
何か間違ったことを言ってしまったかと、エドゥアルドに助けを求めるように視線を向けた。
「随分礼儀正しいんだね。君のような魔獣がいるなんて驚きだ。まるで人間のようだね」
ハノンが人であることを知っているかのような物言いにぎくりとする。
まさかハノンにスパイが付けられてるんじゃないか。そんな疑問が浮上した。
「それはどうも。でも、魔獣は礼儀正しくないなんて、陛下の偏見なんじゃ?」
「ああ、確かにそうかもしれないね」
ルシアーノと話すのは腹の探り合いのようで、最早疲れる。
「エドゥアルド。ハノンとはどこで会ったんだ?」
「城内で会いました」
「ほお? それにしてもハノンの毛は見事な黒だね。他の色の毛が少しも混じっていない。黒の魔獣というのは、ハノンのような姿をしていたのかな?」
「しかし、ハノンは大した魔力を持ち合わせていません」
「確かに。だが、不思議だ。ハノンからは全く魔力を感じないんだ。魔獣なのに魔力がないなんて不思議だね」
しまった。魔力を隠すことばかり考えて、全くないのも不自然だということに思い至らなかった。
「何故エドゥアルドは、魔力のない魔獣と主従契約を結んだんだろうか?」
ハノンに問い掛けるルシアーノは、獲物を狙った鷹のように思えてならなかった。
「それはその……」
ハノンが言葉に窮していたその時、鋭い殺気を感じ取った。
バルコニーの窓は大きく開いている。バルコニー側に立っているエドゥアルド。殺気は明らかに外からのものである。
僅かながら、ギリリと何かが軋む音が聞こえた。
……弓。
どこだ? どこにいる? 何を狙っている?
ハノンは目をつぶり、バルコニーの外に意識を放った。
目をつぶることで外の景色が肉眼で見るより、くっきりと見れるようになった。
敵は一人。弓を今まさにひいているところ。狙いは恐らくエドゥアルド。
頭の中でイメージして、魔力の入った箱の鍵をとく。すると、魔力を隠したときには実感が沸かなかったものだったが、解放した今、力がみなぎるように身体中に行き渡っていく。
矢が放たれたと同時に、エドゥアルドの斜め後ろに一度飛び、向きを変えてもう一度飛んだ。
矢を口で捕らえると、バルコニーの外、庭にある一本の木の上にいる犯人を睨み付けた。
歯を食い縛れば、矢がぼきりと折れた。
「陛下。あの男は陛下の手下でしょう? 何故エド殿下を狙わせたっ」
「やはり、魔力を隠していたんだね?」
こんな事態が起きているというのに、ルシアーノは笑っていた。
「何故エド殿下を狙わせた? 答えろっ。……まさか、私の魔力を解放させるため?」
言葉遣いがどうとか、ルシアーノ王を敬わなければなんて考えられなかった。
「ハノン。落ち着いて。その矢をよく見てごらん」
ルシアーノを睨み付けていたが、ほんの一瞬だけ視線を外し、矢の先端を見る。
矢の先端には、柔らかい綿のようなものがついていた。
「こんなやり方をしてすまない。けど、私は嘘を吐かれるのが嫌いなんだ。君の魔力を見たかったからこんな強引な方法を取ってしまった。きちんと矢に危険がないか十分に実験を繰り返したから、その矢がエドゥアルドを傷付けることはない」
「私は黒の魔獣じゃないっ。あんたと主従契約は結ばない。私の主はエド殿下だっ」
エドゥアルドは、あまりの出来事に放心していた。どんな安全な矢だといえ、お兄さんに狙われたのはショックだったに違いない。
「そうだね。君の主はエドゥアルドだ。私は君と主従契約を結ぶつもりは毛頭ないよ。どうしてそう思ったのか知らないけれど、私は大事な弟の傍にいるものがどんな力を持つのか知りたかっただけだ。弟の害になるなら君を排除しようと考えていた」
「え? 私が黒の魔獣と勘違いして、主従契約を結ぶつもりなんじゃないの?」
予想外のルシアーノの言葉に、自分の思っていた警戒は崩壊し、自分でも情けないと思うような声で問い掛けていた。