第12話
黒髪の少女は、ゆっくりと水面へと姿を現していく。隣に立っているビバルが息を呑んだ気配を感じた。そういうエドゥアルド自身も息をつめていたことに気付かされた。
黒髪黒目は忌み嫌われる存在だと教えられて育った。なぜなのかを先代国王に尋ねたことがあるが、エドゥアルドが成人を迎えたら教えるといってそのままエドゥアルドが成人を迎える前に亡き者となってしまった。
現国王でありエドゥアルドの兄であるルシアーノなら知っているかもしれないが、兄に聞きたいとは思えなかった。
「綺麗だ……」
そう呟いたのは、滅多に口を開くことのないカイルだった。無口なカイルがうっかり声を出してしまうほどに、事実ハノンは綺麗だった。
美しい姫を常日頃から目にしているエドゥアルドさえも舌を巻くほどに。
「ねぇ、エド殿下。私今、人の姿に戻ってんだよね?」
声を聞けばいつものハノンで、それに安堵しているエドゥアルドがいた。
「ああ、人の姿に戻ってるぞ。でもお前透けてるけどいいのか?」
エドゥアルドが渡したタオルが幾分薄すぎたのか、体の線がくっきりと浮き彫りになり、胸部が透けている。
「んなっ」
変な奇声をあげて、肩まで水に沈めた。
本来のハノンの姿を見たエドゥアルドは、興奮していた。胸が高ぶるというのか、胸の辺りが落ち着かない。
「エド殿下のバカッ、変態っ、スケベっ」
「教えてやったんだ感謝してもらいたいね。でなきゃみんなに見られ続けていたんだから」
頬を脹らませて、拗ねてみせる姿はまだまだ子供だ。
「アナ、もう少し厚いタオルを持って来てくれないか?」
「はい。ただいまお持ちします」
アナに指示を与えると、再びハノンに視線を移した。
「噴水の水と池の水、どこが違うんだ?」
自分に問い掛けるように口の中で呟く。
「エド殿下、どこかから声がする。これって何の声?」
「ん? 私たちの声か?」
首だけ出したハノンに問い掛けた。黒髪のハノンは、口を曲げて首を傾げている。
「違う違う。みんなの声じゃないよ。全然違う声。私の名前を呼んでんの」
「もしかしてそれは精霊の声じゃないですか」
声のする方を見ると、タオルを手にしたアナがこちらに歩いてきていた。
「「精霊?」」
ハノンとビバルの声が重なった。
この池には精霊が住むと昔から言われていた。ビバルもそれを知らないわけがないが、その姿を見たことがないので、まるで信じていなかったのだ。
ハノンは、城に上がって間もないのでそういった城に伝わる物事をまるで知らない。
「精霊……か」
エドゥアルドは腕を組んで目を閉じた。
精霊がいるかいないかが、もしハノンの姿を戻すことと関係があるのなら、精霊の恩恵を受けているもの、場所でハノンは人間の姿に戻るということではないか。
「アナ。そのタオルをくれ」
アナの手からひったくるようにタオルをもぎ取ると、池の中に飛び込んだ。池の深さはエドゥアルドの腰より少し上くらいにある。
タオルを濡らさないように頭上に上げ、ハノンがいる場所まで進む。
「ハノン。来てくれっ」
返事を待たずにハノンの腕を掴むと引き返さずに、真っ直ぐに進む。
「なにっ、なに? どこ行くの?」
ハノンの疑問に指差すことで返答する。エドゥアルドが指差した先には、森が見えていた。
ハノンを伴って池から上がると、ハノンの姿は魔獣に戻った。水気を吸って重くなったタオルがべちゃりと地面に落ちた。
不可思議な現象に足が止まりかけたが、実際に止まることはなかった。森の入り口は、池から十歩ほど歩いただけでついてしまう。
森に足を踏み入れた途端、ハノンの姿は少女の姿に戻った。
エドゥアルドは、持っていたタオルをハノンの体に被せた。
「思った通りだな。この森にも精霊が住んでいると言われている。お前は、精霊がいる空間では本来の姿を取り戻すってことだ。恐らく精霊の前では、呪いは通じないということなのだろう」
「精霊が私の呪いを解いてくれるってこと?」
「イヤ、呪いも精霊の前ではきかないということかもしれない。ただそれは一時的なことにすぎない。呪いが完全に解けたわけじゃないから、精霊の力が及ばないところに行けば、また姿は戻ってしまう」
全ての精霊が全てその力があるかは分からないが、精霊が住むと言われている場所は、ハノンを人に変えると覚えておいたほうがいいだろう。
「んじゃあさ、私がここに家を建てて住めば、たとえ呪いが解けてなくても、ずっと人間でいられるってことだよね?」
嬉しそうに声を弾ませるハノンに、胸がムカムカする。
「お前は私の使役魔獣なんだから、私の傍にいろ」
ハノンの目を見ずにそう不機嫌な声を出す。
「分かってるよ。そんなこと。エド殿下はなんでそんなに意地悪なこと言うんだよっ。少しくらい夢見たっていいじゃんかっ」
もしかしたら、ハノンにとってここでひっそりと人の姿で暮らしたほうがいいのかもしれない。魔獣の姿でいれば、黒の魔獣として扱われる羽目になり、人の姿でいれば理不尽な扱いを受ける羽目になる。ここで精霊に守られながら人の目を避けて暮らすほうが幸せなのだろう。
「違う。意地悪で言ったわけじゃない。私はもうお前なしでは寝られない」
本当は一人でだって寝られるだろう。だがあまりにもハノンの体温に馴れ親しんでしまった。違和感があるのは確実だろう。
「何それ。子供じゃないんだからっ」
怒ったふうに言葉を投げ付けるが、ハノンの表情は照れたように上気していた。普段見ることのない表情豊かなハノンに、なぜか胸が疼いた。
「一緒に城に戻って欲しい。ここには、また来ればいい」
「ここに来てもいいの?」
「ああ。ただし、私と一緒でならな」
エドゥアルドを見上げ、微笑み頷いたハノンに、見惚れた。
「ありがとう、エド殿下。本当は優しいんだよね。私、もう分かっちゃった。うん、エド王子は優しい、とっても」
もしかしなくても、ハノンがエドゥアルドを褒めたのは初めてだった。
「バカ言え。私は最初から優しいんだ」
エドゥアルドがそう言うと、ハノンは弾かれたように笑いだした。
突然のことにキョトンとその光景を眺めていると、エドゥアルドのそんな姿を見てさらに笑った。
「エド殿下、今照れてたでしょ? 顔が真っ赤だったよ?」
「別に照れてなど……」
「ははっ。維持張ってる。エド殿下って可愛い」
まさかそんな言葉がハノンの口から出るとは思わなかった。それ以前に女から『可愛い』だのと言われた経験はない。
「格好好いの間違いじゃないか?」
「出たっ。ナルシスト発言。せっかく褒めてあげたのにさ」
「男が可愛いと言われて喜ぶと思っているのか?」
小さな子供ならまだしも、成人した男が言われて喜ぶわけがない。軽くへこむというものだ。
「そっか、そんなもんか。ごめん。私は褒めたつもりだったんだけどさ」
「いや、まあ。いいが」
あまりに素直なハノンに、少々面食らってしまう。
「そろそろ戻るぞ。あいつらが心配する」
エドゥアルドはハノンの手を取って、踵を返し歩き始めた。