第10話
軽快なノックの後、ビバルと共に女官長が執務室へと足を踏み入れた。
「殿下、女官長殿をおつれしました」
「ご苦労だったな。仕事中に邪魔をしてすまない。二、三聞きたいことがあってな」
女官長はエドゥアルドのデスクの前まで歩み寄ると、ぺこりと頭を下げた。
「いいえ、とんでもございません。一体私に尋ねたいこととはどのようなことでしょうか」
女官長は、三十代前半の黒ぶち眼鏡が似合う外見も内面も厳格な女性だ。
その女官長がいつになく顔色が悪いことが気になった。健康管理も怠る筈のない彼女が一体どうしたというのか。
「顔色が悪いようだが、大丈夫か?」
「ええ、大丈夫です。お気遣いありがとうございます」
女官長は、顔色一つ変えず端的に答えた。そう言われることは想定内だったのだろう。恐らく方々から何度と言われていたのに違いない。
「そうか。では本題に入るが、最近侍女として城に入ったという黒髪黒目の少女はどうしている?」
ビバルがハッとしたのが、空気の動きで分かった。当然その噂は耳に入っているであろうが、ハノンと関連づけて考えていなかったのだろう。
「……」
女官長が俯いて、今にも泣きそうな顔をしている。
「どうした? 何かあったのか?」
女官長の様子から何かがあったのは定かだ。
やはりエドゥアルドの考えは正しかったのか。予測が確信へと姿を変えていく。
「私の監督不届きでございます。……彼女は四日ほど前に姿を消してしまいました。彼女のご両親からくれぐれもよろしくと頼まれていましたのに……」
今にも泣き出してしまいそうな女官長にエドゥアルドは冷静な眼差しを送っていた。
「彼女の名前はなんと?」
「ハノン・チチェスターでございます。チチェスター家のお嬢様です」
答えは予測していたのに、いざその名を聞いた時の衝撃は大きなものだった。それでもエドゥアルドは、態度に動揺を見せることはなかった。
「チチェスター侯爵か。確かチチェスター侯爵には娘はいなかった筈だが」
「はい。チチェスター様はハノンを養女として招き入れたのです」
そんな話はエドゥアルドの耳には入って来ていなかった。
「それは初耳だな。どういった経緯で養女になったのか聞いているか?」
「はい。ハノンはある夕暮れどきに道のど真ん中にぼんやりと立っていたそうです。チチェスター様が通り掛かって話し掛けたのですが、ハノンはまともに話すことも出来ず、それまでの記憶を全て失っていたそうです。唯一自分の名前だけは覚えていました。そこに置いて行くことも出来ず、家に連れ帰り養女になさったのです。外見が外見ですし、話すことも出来ないとあって、チチェスター様はハノンを世間に知らしめることを控えておりました」
チチェスター侯爵は変り者として有名だ。貴族然としたところがあまりない。寧ろ貴族間のしきたりやら常識やら考え方を嫌っているように見えた。
そんな彼だからこそ、貴族なら誰も手を差し伸べないだろう黒髪黒目の少女を招き入れたのだ。
「ハノンに言葉を教えたのがご子息でしたので、言葉遣いが酷い有様で、それにいつまでもハノンを家の中だけで暮らさせるのは可哀想だということで私に城で礼儀作法と言葉遣いを教え込んで欲しいと頼まれたのでございます」
チチェスター家の子息ジェロームはあまり教養深いとは言えない。よりによってなぜあの男に言葉を教えさせたのか理解に苦しむところだ。そんなことだから、ハノンの口が悪くなるのだ。
「そうか。チチェスター家には、ハノンがいなくなったことは話したのか?」
「それが、もしかしたら家族が恋しくなって戻っているのではと思ったので、文を出したのですが、どうやら旅に出ているようでして、まだ連絡が取れないのです」
チチェスター侯爵夫妻は旅好きでも知られている。仕事はきっちりとこなすが、休むときはまとめて休み、遠くまで足を延ばす。
旅に出たチチェスター家がいつもどるかは予測不能だ。
「チチェスター侯爵の行方は私のほうで探しておこう。ハノンのことも探す。だから、きちんと寝ることを勧めるよ」
「ありがとうございます」
一人で抱え込んでいたことが相当こたえていたのか、女官長はホッとしたような表情を浮かべた。
こんなにハノンを心配している女官長を前にして、ハノンが魔獣であるかもしれない事実を黙っていることはあまりにも非情なんじゃないかと思えてくる。
「それでは、私はまだ仕事がありますので失礼します」
エドゥアルドが黙ったのを見て、話が終わったと判断したようだ。
「ああ、仕事中に呼び出してすまなかった」
「いいえ、お気になさらずに」
頭を深々と下げると、踵を返して執務室をあとにした。
女官長の姿が見えなくなったのを確認してから、フッと息を吐いた。
「なあ、ビバル。女官長にハノンが私の部屋にいて魔獣になってしまったことを伝えるべきか? ハノンと女官長を会わせるべきか? チチェスター侯爵には?」
はたしてハノンが魔獣となってしまった姿を家族や親しい人に見せたいと思うのだろうか?
「直接ハノンに聞いてしまえばいいのでは? ハノンが会いたいと言うのなら会わせてやればいいのです」
「ではお前は、我々がハノンが人であることを知っていると、まあまだはっきりとは言えないが、伝えるべきだと言うんだな?」
「なぜ隠す必要があるのですか? そもそも本人に聞けばいいのですよ。それが一番早いと思います」
そうか、そうかもしれない。
エドゥアルドが、エドゥアルドに仕える従者たちがハノンの話を聞いて、力になっていけばいいじゃないか。
突然魔獣に姿を変えられたハノンが心細くないはずがないのだ。
「それもそうだな。そうしよう」
一度決めてしまえば、迷いは一切払拭された。
その夜、エドゥアルドはベッドでハノンを抱き締めたまま話を切り出した。
「私の見解を話してもいいか?」
「ん、なに?」
もうすでに眠気に襲われているのか、ハノンの目はトロンとしていた。
「大事な話だ。寝るなよ?」
「んん、努力はする」
今にも閉じそうな目蓋をそれでも頑張って開けようとする姿は見ていて温かい気持ちになる。
「私は、お前は魔女に呪いをかけられて魔獣にされてしまった人間だと思うのだが」
「えっ」
パッと顔をエドゥアルドに向けたハノンは、一気に眠気が覚めたのか、目をぱちくりしている。
「違うか?」
「どうしてっ? どうしてそう思ったのっ」
ハノンの勢いは、エドゥアルドの胸に飛び掛からんほどのものだった。
「私たちがその見解に至った経緯を今から話すから、とにかく落ち着け」
エドゥアルドの言葉に漸く落ち着きを取り戻したハノンの頭を撫でてやった。ハノンは気持ちよさそうに目を細めた。
エドゥアルドはハノンの頭を撫でてやりながら、これまでの経緯を話して聞かせた。
「どうだ? 私たちの考えが正しいのなら正直に話してくれ。私たちがお前の力になるから」
ハノンはエドゥアルドの瞳を探るように覗き込んだ。
「全部エド殿下の言うとおり。私は人間だよ。魔女に呪いをかけられたんだ。私はもしかしたら一生魔獣のままなのかもしんない」
「その呪いとは一体なんだ?」
エドゥアルドの瞳を捉えていたハノンの黒目がゆっくりと下がって行く。
「それは言えない。言いたくないの」