第1話
少女は、ほうきを片手にはき掃除をしていた。
「あ〜。ホントこの城広すぎ。いい加減飽きたっての」
ぶちぶちと不平を口にする少女だったが、それでも手はしっかりと動いていた。ただ、朝早くから廊下のはき掃除を命じられ、昼ご飯も食べることなく作業を続けていた少女のイライラはとうに沸点を越えていた。
そんな時だった。
少女があくせく綺麗にしてきた廊下を誰かが歩いて来る気配を感じたのは。
少女はチッと小さく舌打ちすると、柱の影に身を隠した。それというのも、少女の言葉遣いはあまりに荒く、城の中での教育係兼親代わりである女官長に他人と言葉を交わすことを禁じられていた。少女と同じ侍女仲間には、不幸な出来事があって、一時的に口が利けないということになっていた。
ぼろを出すのを恐れた少女は人との関わりを極力避けていた。
しかし、誰が通るのか好奇心にかられた少女はこっそりと廊下を覗き見、信じられないものを目にした。
歩いてくるのは若い女だった。少女にとってその女が整った容姿をしていようが美しいボディラインをしていようがどうでもよかった。
少女が凝視していたのは、その女の足元だった。
あの女……。
少女は怒りに震えた拳をどうにか落ち着かせようと、もう片方の手で抑えつけた。が、そんなことで怒りは消えるとも思えない。
「あなたの言葉遣いはなっていません。決して外で発してはなりませんよ。間違って使って不敬罪に問われても文句は言えないのですから」
厳しいながら少女の身を案じてくれる女官長の言葉が頭を過ったが、朝から積み上げられたイライラに煽られた怒りは膨れるばかりだった。
サッと身を翻し、廊下に姿を現した。
若い女が驚いた顔を一瞬したが、その表情も一瞬で消え、今度はニヤリと口元を歪めた。
そんな若い女の表情を捉えるゆとりもない少女は、若い女の前に仁王立ちすると、怒りを一気にぶちまけた。
「ちょっとオバハンっ。私が朝からどんっだけ苦労してここまで頑張ったと思ってんのっ。私のっ、私のっ、この努力を返しやがれ、クソババアがっ」
少女が朝からはき清めて来た廊下に見事な足跡が残っていた。前日の雨でぬかるんだ道を歩いて来たのだろう。靴の底にたっぷりと泥がついていたのだ。
これから再び掃除しなおさなければならないという事実と朝から積み重ねられていたイライラがとうとう爆発してしまった。
爆発して全てを吐き出し、すっきりしてしまうと、途端に冷静さが戻ってくる。少女は両手で自らの口を封じ、初めてその若い女の風貌をまじまじと見た。
黒い上質そうなワンピースに黒い靴。
この国で全身真っ黒な服を身にまとっているのは魔女くらいなものだ。その常識はいくら少女とて知っていた。
「まっ、魔女っ」
「ふふん、そう。私は魔女。あなたの掃除を邪魔してしまったようね。それは謝るわ。ごめんなさい」
その若い女、魔女は指をパチンと鳴らして杖を出すと、それを一振りした。
一瞬にして靴の跡が消えたことに少女は驚いて、だらしなく口を開いていた。
「ほーら、これで元通り。あなたの怒りはこれで消えたわね?」
「はっ、はいっ」
「それは良かった。でも、私の怒りはまだ消えていないの。どうしようかしら?」
魔女は美しい顔立ちをしていた。いくらなんでも『オバハン』『クソババア』などと呼ばれた経験はないだろうと思われた。
美しい顔立ちの魔女がにっこりと微笑む姿は、怒りを内にこもらせているかと思えば恐ろしいものでしかなかった。
「もっ申し訳ありません。私、言葉遣いが絶望的でして……」
「そのようね。それにその容貌で苦労して来たのでしょうね?」
少女は言葉に窮した。
この国では、黒い髪と黒い目は不吉なものとして忌み嫌われる存在であった。少女は、その黒い髪と黒い目を持って産まれた。この国でも、両方を持って生まれてくるものは至極稀なことであった。
だが、少女には幼い頃の記憶がなかった。自分の本当の家族の記憶もなかったのだ。少女の記憶の中にある家族はとても優しく、少女の外見を見て差別をすることは皆無だった。
魔女はそんな少女の態度を肯定と受け止めたようだった。
「決めたわ。あなたに呪いをかけることにする。さあ、あなたは今日からこの姿で過ごすのよ。これならあなたは今ほどに嫌われることはないし、私の怒りもこれで少しは治まるというもの」
魔女が杖を一振りすると、少女の体は杖が発した光で包み込まれた。
少女は不思議な感覚にとらわれていた。痛みは感じない、けれど、自分の体が変化していく言いようのない不思議な感覚だった。自分が風船になってふくらんでいくような、そんな感覚だ。
「どうかしら? 魔獣になった感想は?」
魔女はそう言うと、再び杖を一振りし二人の間に大きな鏡を出現させた。
そこには魔女が見上げるほどに大きな黒い魔獣がいた。一言で言えば、大きな黒い犬である。勿論魔獣であるからには、大きな鋭い牙と鋭い眼光、大きく尖った爪を持ち合わせてはいた。
少女は愕然としていた。けれども、その魔獣がある程度可愛らしい(少女にはそう見えた)部類のタイプであることに少なからず安堵していた。
「ほう。これは美しい魔獣だ。魔女殿と契約を交わしているのですか?」
少女の位置からでは巨大な鏡が邪魔をして確認出来ないが、その声は若い男のものらしかった。
「いいえ」
「では、私が……。構いませんか?」
「ええ。私は一向に構いません」
少女はこの会話を意識半分で聞いていた。鏡の中の己の姿を見れば見るほど、心は打ちひしがれていくのだった。どんなに真っ黒な目と髪をしていても、人間でいたかった。どんな差別をこの先受けることになろうとも、人間でいたかった。
「お前の名前はなんと言う?」
「……ハノン」
そんな精神状態だったから、少女は咄嗟に名前を素直に答えてしまったのだ。
「そうか。ハノンか。いい名前だ」
少女はその男を見下ろした。女性と見紛うほどに美しい顔立ちをした男が魔獣にされたハノンという少女を見上げていた。その瞳は真っ直ぐにハノンを見据えていた。一瞬でもその視線から逸らしたら負けのような気がして、その目を見続けていた。
最初に動きを見せたのは、その男の方だった。腰にさしていた短剣を鞘から抜き取ると突然自らの腕に走らせた。スッと走った切り口から血が溢れ出した。
男は痛がる素振りもせず、短剣を鞘に戻すと、血が溢れ出ている腕をハノンの方へ見せ付けるように持ち上げた。
男が何を求めているのかハノンには見当もつかなかった。なぜ男がわざわざこちらに傷口を見せ付けるのか。
男が言葉を発することはなかった。ただ、ハノンを見上げていた。何かを待っているかのように。
ハノンは男の血だけを見ていた。もう男がハノンに何を求めているのかなんて考えてもいなかった。考えていたのは男の血と廊下のことだ。
男の血が傷口から溢れだし、曲げられた肘に溜まりはじめていた。今にもそれは滴り落ちそうだった。
考えるよりも体が勝手に動いていた。ハノンは頭を下にもたげると、肘に溜まった男の血を大きな舌で舐め取った。
ハノンには耐えられなかったのだ。朝からコツコツ掃除した廊下を血で汚されることが。
他人の血を舐め取ることは、気持ち悪いことではあったが、背に腹は変えられない。
「ハノン。我が名はエドゥアルド・カーティウェル。今から私がお前の主だ」
男は、誇らしげに、そして高らかにそう宣言した。