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修羅の時代  作者: 中仙堂
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市の谷

草深い茂みを屶で払い乍ら、義経軍は進む。

重い鎧を着用し馬の轡を取って歩くだけでも、一般の者には重労働である。然も茂みを切り開く為に、重い屶を振り回し乍らと云うと、可成り苦痛であったろう。

行けども行けども、密林の登り下りである。

神経質な馬は途中で、人間同様に音を上げてしまう。

鵯越えとは単に、坂を下るだけではなかった。

其れだけに平氏も、よもや頭上だけはと安心しきっていた。

「おーい、未だか。」

「未だでござる。」

「よーし、此処らで暫し休もう。」

潅木を僅か乍ら払い、休憩場所を作った。

「先導の若いのを、呼んで来い。」

暫くして若者がやって来ると九郎の前に額ずいた。

「はっ、御前に。」「其の方、此の儂のやる事を見てどう思うか、申して見よ。」

「はっ。」若者は暫く考えて、「市の谷の鵯越は屏風に似て、下手をすると全軍真っ逆さまに、奈落の底でございます。」

「儂は必ず此処を下って、平氏に打ち勝ちたい。何か秘策は有るか。」突然若者は笑い出した。

「こらっ、殿の御前なるぞ。」

「まあ、良い。」

「殿様、此の様な無謀には、秘策など有りますまい。僭越でございますが、有るとすれば、殿様が申された様に、鹿が下れば、馬で出来ない事はなかろう。でございます。後は各自の用心深さと、乗馬の技量でしょうか。」

「あっはっはっは。猟師のお前達の申す事、当然である。我等が鬼神の如き気合いで、下れば必ず道は開けるものよ。者共鵯越の一番乗りは、此の九郎じゃ。後へ続け。」

「うおおーっ。」

「ぼちぼち、休んでなど居られん。行くぞ。」

そして更に一山越えると、急に前方が開けて海が見えた。

「おおーっ、海だぞ。」

思わず見下ろす崖は遥かに下へ続いていた。びゅうびゅうと海風が吹き付ける中、皆一瞬たじろいだ。

「皆の者、怖じけ付くな。先ずは儂が手本を示そう。敵は遥か眼下じゃ。良いか、此れを崖と思うな。此れは平地じゃ。駆け抜けろ。」「うおおーっ」

愈々逆落しが始まった。

大将自ら駆け降りるとなれば、後は只続くしかなかった。

九郎主従は駆けた。ひたすら斜の平地を駆けた。

勿論馬ごと転ぶ者も居たが、皆必死だった。

何物の音も聞こえず、どうどうと地鳴りのみが周囲を駆け抜けた。「おおーっ、着いたぞ。」

先ずは平家よりも、駆け降りた九郎達の方が驚いた。

その頃一の谷の平家本陣では、そろそろ緊迫感が増して来た。

大手関所の、詰めの者から援軍要請が矢継ぎ早に届いて居た。

「者共、源氏の田舎武者を、一気に打ち砕く者は居らんのか。」

「よーし、我こそ、其の大任を果たさんで済むものか。配下の者共や、いざ続け。」

なんとも出端の元気だけは一人前の若者も多い。しかし年輩の者は都暮らしが恋しい者も多く、事態の光明を願うだけで、自ら積極的に討って出ようと云う者は稀である。

源氏の荒武者と聞いただけで、

怖気を振るい嫌な顔を見せる者も居た。

其の時、遥か彼方から、季節はずれの雷鳴の轟きが聞こえてきた。この音に一番敏感な者は、女房どもであった。

「はて、この季節はずれに何事であろう。」

其れまで議論百出であった男共も浮き足立った。

「うぉー。」

叫びを上げて屋敷の外へ皆々飛び出して見ると、あちこちから矢の雨が降って来た。

「すわ、皆出会え。」

その声に反して多くの者は右往左往して得物を探し回った。哀れな者は、女房子ども達であった。

皆々御座船に乗り合して、命からがら漕ぎ出して行った。

「おいおい、男なら戦え。」

見ると女物の小袖を纏い身を隠して居る者もいる。一目散に御座船目掛けて走って行った。その逃げ足はどう見ても男衆である。

「ちっ、上手く逃げろよ。」

そう云い乍ら、苦笑いで見送った精悍な顔の男は、先夜命拾いをした、平氏では極めて珍しい、男らしい渡辺良介の姿であった。

あんな奴が平家の女房衆子どもらの、大切な運命まで変えてしまった、だらしの無い男達だ。そう想い情けない気持ちで良介の気持ちは一杯だった。

「おう、元気か。」

突然呼び掛けられて、はっと振り向く良介は驚いた。

先日闇夜の晩に野犬の群れに襲われ、九死に一生を拾ってくれた、あの大男の僧だった。

「なんだ、又随分と驚いているな。」

余り考えて居ない突然の対面に、つい戦意を無くしていた。

「拾った命を粗末にするのかい。今なら未だ間に合う。」

良介はきっと構え直すと、

「さっ、いざ勝負。」

「死に急ぐ事もあるまい。なに、宗旨変えじゃ。ほって置いても、滅ぶ物は滅ぶもんじゃ。」

良介は、はたと膝を打った。

「ほーっ、貴方様が泣く子も黙ると云う弁慶殿か。」

彼は、にやりと微笑むと、

「是は光栄でござる。天下の名だたる名僧、いや武人弁慶殿と一戦願えれば、武士と生まれて一命を捨つるとも本望。」

その頃既に周りに源氏の武士達が、集まり始めたのが気になる弁慶は、少し悲しそうな顔をして、

「人を救うのも拙僧の使命。又極楽に往生さすのも又拙僧の役目。お望みならば一戦見えたい。宜しいのか。」

念を押す弁慶に、

「お望み申す。」

弁慶は大薙刀の柄を持ち直すと、ささっと構えた。

やや遠巻きに仲間が見守る中、止む無く勝負に出た。

大薙刀を上段から斜に、大きく振り払う。間際で辛うじて交した良介は、二振り目に一声も発せずして事切れたのである。

混乱の極み市の谷の砦奥の溜まり場では、戦況の事態も知らず今だ腰を上げず論議を交す武将達も居た。

その時並び居る武将の中で慌てず腰を上げた者が居た。

「通経殿、お逃げなされ。命在っての事ですぞ。」

普段は大人しく和歌などを嗜む文人派であった。

彼は声の主を、ちらと一瞥したのみで、慣れない鎧に身を固め、屋敷の高殿へ登った。

その頃源氏の逆落しの、兵達は殆ど崖の下まで降りて居た。

あちこちの喧噪の中、通経は止める者の声も聞かず、一人片袖を脱いで、敵兵目掛け弓を射はじめた。

日頃慣れ親しまない苦手の弓であるが、必死の形相で射つづけた。すると数間先に、居た源氏武者が、

「おっほーっ。大将殿、そんなひょろひょろ矢など、我等源氏武者には当らぬぞ。」

そう相手を茶化しながら、段々と近寄って来る。

自尊心を傷付けられて、怒り心頭の通経目掛けて、遥か彼方から、一本の矢が飛んで来た。

「むっん。」

和歌では他に類のない秀才も死の運命の前には、実に呆気無く果ててしまった。

その突然の事に、先程の荒くれ者も哀れに思ったものか、済まな気に手を合わせていた。

波打ち際では、止む無く退去する女房達専用の御座船が、乗り遅れた幾人かを待ち受けて居た。

「早く来ませい。追っ手が来ますぞ。」

慌てて足を踏み外し船の端から、水の中に落ちる女も居た。気が気で無いのは水夫達であった。

「もう、良いであろうに。早く出ぬと間に合わん。」

陸の上も水の上も大変な騒動であった。又平氏の男の中でも、互角に戦う古兵も多少居た。

多くの兵の頼りの無さに、失望しつつも果敢に戦いの中に進んで行った。

「何の源氏の田舎侍に、我等が負けてなるか。」

「やい、関東の田舎武士は、そち達の事か。」

「ふん、飛んで火に入る何とやら、さあ我こそは源氏の重臣熊谷次郎直実が家臣、中でもその人在りと云われた、佐良吉右衛門でござる、勝負じゃ。」

猫の額の様な市の谷は上から義経、横から源氏本体に突き込まれて、阿鼻叫喚の巷となった。

人は「阿〜っ。」と産声を発し乍この世に生を受け、やがて「吽」と言葉にならぬ声にて死すると云う。

誠に儚いものである。

敵味方双方心ある多くの武将を失い、弁慶の心は暗かった。

若き日京の都で、千本の刀を奪う悲願は、今戦場の修羅を借りて、何人の生くべき命を救うかの悲願へ、知らず知らず変転していた。其れは戦いに明け暮れた此の時代、何とかして多くの有能な人物を、殺さずに残すかと云う、主人義経の密かな願いにも重複している様だ。

周囲の源氏武者も弁慶の心を知ってか、無用のはしゃぎ振りは見せなかった。

平氏の一族は、多くの同胞の死を残して、海の彼方へ去った。

自分自身を見失う時、人は身の回りはおろか、如何に多くの大切な物を失うものであろうか。

いつの世にも泰平の夢に胡座をかき、分不相応の驕りを顧みない者、他者を労る心の無い者は、何れこの滅びの道を歩む事になるのである。






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