鵯越え前夜
真っ赤な黄昏の大地を一頭の騎馬が駈けて来る。
沈む夕日を浴びて、荒涼とした原野を駈ける馬も人も、相当疲弊し切っている。
草原を横切ると小川の岸辺近くの權木に駈け寄った。林の中には小川で漁をする近くの村人の作業小屋であろうか。
小屋の近くには数頭の馬が杭に繋がれていた。
騎乗の男は未だ若く一七、八歳位の精悍な若者であった。崩折れる様に馬から降りると、突然小屋の戸が軋んで開いた。
「おおっ、良介殿如何致した。」
「御免、実はいよいよでござる。」
「源氏が動き出しましたか。」
「いやぁ、木曽が落ちた。」
「もう落ちた。何と。」
「そうさ、今度の鎌倉は木曽どころではない。」
「むー、するといよいよ範頼の攻撃か。」
「いや、違うな。鎌倉の末っ子殿が主役じゃ。」
「じゃ、九郎か。そうか。」
「そう、あ奴は手強いぞ。」
「早速お館様に伝えねば。」
「敵の動きは早いぞ。其れに事態の急迫を何と伝える。む、やはり俺が行く。」
「おい、体が持つのかよ。」
「いや、何とかなる。済まぬが飯をくれ。」
「さあ、残り物じゃが、飢えを凌ぐのが大事じゃ。」
良介は小柄だが戦場で鍛え抜いた体は、全身引き締まっていて並の武士には負けない。今の平家の軟弱な武士仲間では極めて珍しい存在であった。
碗に盛られた雑炊を一気に、二杯ぐっと流し込むと垂れた前髪をさっと掻き上げた。
「さっ、行くぞ。御免。」
疾風の如く駈けて行った。
陽はもうとっぷりと更け、空には月が煌々と輝いていた。
其のとき突然彼方から、もの凄い唸り声が聞こえた。戦場に近い為か、先ほどより野犬の遠吠えが聞こえるのが気になっていた。
小屋を出てから二里程西へ向かったが、相変わらず物の気がするので、さすが強者の良介も少しづつ馬の速度を早めた。
馬も何やら周りの殺気立った気配が気掛かりらしく、どんどん足早になって来る。
「ギャウン。」
一声、吠えると左右から大きな野犬が飛び掛って来た。
良介は大太刀を匹抜くと左へ右へ払い乍駆けていった。
「ヒヒーン。」と馬がけたたましく嘶いた。
突然大きく竿立ちになると、良介は馬から振り落されてしまった。
不覚であったが其の時思わず右手に持っていた大太刀も取り落してしまった。
「しまった。」
すると「ガウウ。」
野犬がたちまち馬と良介に群がって来た。
「南無三。」
思わず一瞬眼をつむってしまった。
すると近くで「ギャウン」と犬の悲鳴が聞こえた。
と一緒に野犬がバラッバラッと散らばった。何事が起きたか良介には判らなかった。
不意に岩陰から松明が投げ込まれ、辺り一面思わぬ明りに、ぼうっと光った。
松明がぱっと、辺りを明るく照らした時、良介は我を忘れて周囲を見回すと、岩陰から数十人の男達が、わらわらと出てきた。
「大丈夫か。」
「しっかりせい。」
「辱い。ありがとうござる。」
すると、「お主は何処の者じゃ。」
僧形の大男が聞いた。
良介はぎくりとした。前門の虎とは此の事か。
どうやら源氏の一団の様だ。
「私はこの地方に住む者で、渡辺良介と申す者。この一命をお助け頂き、何とお礼を申し上げたらよろしいか。」
大男はじいっと良介を横眼で眺め乍、
「ふふーん。まあ、こちらへ来られよ。」
一同に取り囲まれ、近くの村へ連れて行かれた。
恐らく名主か何かであろう、と有る一軒の大きな屋敷で八○名程の武士の一団が、陣を張っていた。
一室に通されると、先ほどの僧が入って来た。
「まあ、お寛ぎあれ。ご覧の通りでござる。貴公は察する処、平氏方の者であろう。其の件に関しては語らずとも苦しゅうない。とは殿のお言葉。我らも知らなかった事。今、事の訳を明かす訳には参らぬ。当然殿にお眼通りも、お互い名乗りも無用。我々は先ほど貴公に関わってしまった故、不満で有ろうが貴公の御身についてはこちらの判断、処遇に委ねて貰う。」
覚悟をしていた良介は、命が有っただけ儲けものと考えるしか無かった。
「判り申した。何なりとご処遇有れ。」
すると僧は、
「主人の申すには、平氏の者であれ無益な殺生はすまい。しかも今、命を助けた者を、こちらの都合だけですぐ殺める事は余にも理不尽である。との御事じゃ。其処で貴公の事は丸一日、此の屋敷内に拘束する事にいたす。
我らは直ちに此の地を退去するが、拘束後は何をするにも自由じゃ。だが我々の行く手等は、決して詮索せぬ事じゃ。相判ったな。」
「はっ、厚き御配慮痛み入り申す。」
良介は遅い晩飯を享受した。尚里の者が一人自分を見張って居る事が判った。
恐らく彼等は源氏の一団であろう。兵の移動が恐ろしく早い。
いち早く早馬で飛ばして来た積もりが、先方は既に此処へ陣を張って居た。つくづく今の平氏には無い士気の高さを感じた。
夜が明けて朝になると、屋敷の内も外も殆ど人気が無かった。
庭の片隅で雄鶏が時を創って居た。
夕べと違い何とものどかであった。
あの一団が源氏最強と云われる義経軍か。
陽も高くなった頃、良介は手負いの愛馬を操り乍、主人の元へと旅路を急いだ。
此処、市の谷は平知章の陣地であった。
さすがの平氏も風雲急を告げる諸々の情報が、あちら此ちらの峠を越えて入って来るので、皆々騒然として来た。
特に女房共は生きた心地もしない様である。
「殿、都より早馬が来て居ります。」
「うん、よし判った。朝餉がもう直ぐ終わる。少し待たせておけ。」
昨今の平氏の勢力が斜陽となって此処の主人知章も正直な処、気が気では無い。
自分達が武士社会の領袖である事すら思い出したく無いのが本心であろう。
すっかり泰平の世の甘露に酔い痴れる習慣が付いた。其れがこの度の破滅の原因である事は、平家の心ある男共は承知している。
しかし、嫌なものは嫌である。
時が時ならばと、つくづく厭世の心に囚われる日々である。
しかし、最早猶予はならない。
「よしっ。」気を取り直して立ち上がると、広間へ向かった。
「ご苦労。ん、どうした其の格好は。」
死に損なう程の難儀な旅であった。
踞る若者は良介であった。
挨拶の口上を述べ、久々の主人を下から見上げるが、相変わらず煮え切らない主人である。主人として心に決めてから久しいが、今日の平氏の退廃振りには相当辟易している。
然しいいかげん眼をお覚ましなされと云いたい良介であった。
其の気持ちは敢えて顔には出さず、
「申し上げます。源氏が動き始めました。」
「源氏が動いた。それは油断がならんな。
木曽はどれ程の…。」云いかけると。
「殿、遅うございます。木曽などもう、何処にも居りませぬ。この世の者ではござりませぬ。」
「なに、如何致した。」
「木曽はたった一日で敗れもうした。たった一日。九郎義経です。」「木曽が敗れたのは範頼ではなく、源氏の舎弟九郎殿です。その戦の駆け引きのす速さ、疾風の如しです。」
主は少々むっとして、
「随分敵方の肩を持つよのう。」と云いかけて考え直した。
「で奴は、何処まで来て居るのか。お前に判るのか。」
煮え切らない主君に、腹立たしさを感じつつも、
「はっ、実は昨夜旅の途中で、野犬に襲われた最に遭遇しました様で。」猜疑心が強い主人に気付かれない様に、語尾を濁した良介であった。「なにっ、で如何致した、身分が割れたか。」
「いいえ、通りすがりでまあ、闇夜であれば、こちらには気が付かなかったのでは…。」
「ふーん、そうか、それが源氏か。」
はっきりしない話に、もうどうでも良くなった風だ。
良介は中空を、きっと見据え威を正すと
「源氏本軍の動きは、未だはっきり致しませんが、木曽も敗れその本軍はひたひたと、此の市の谷へ向かって居ると考えられます。昨夜遭遇致しました一団も小勢ながら、直ぐ行方を晦ます油断のならない相手でございます。直ちに全軍で敵を迎え討つ算段が必要かと存じます。
「よし、判った。しかし此の市の谷の陣容じゃ。前が海、後ろが山じゃ。街道は狭く関所を強固に固めて居れば、いっかな源氏の田舎武者でも…。」
最早、良介は聞いていなかった。
我が主人でさえも、この通りである。危機感の欠如を憂いつつ、未だ見ぬ敵軍の脅威に不安な良介であった。
「おう、韋駄天の七郎がやって来たか。どうだった、市の谷への街道筋は。」
「はっ、殿やはり市の谷への街道は、厳重な関が設けられ、言わば要塞か、砦と云う堅固な作りです。道幅も崖に阻まれ、此の関所を打ち破る事は中々容易ではござらん。」
義経はくるりと見回すと、
「さて、木村又三は帰ったか。」
すると後方に控えて居た又三は
「はっ、御前に。」
「市の谷の本陣の後背は如何に。」
「ははっ、後ろは鵯越えと申し高い崖が間近に迫って居り、とても馬で下れる処ではござりませぬ。」
「ふん。面白く無いのう。弁慶、前が駄目、横が駄目で、後ろが通れぬとなれば、全く敵の思うつぼと云うもの。何か良い手立ては無かろうか。」
やや暫くして
「はっはっはっ。皆の者、嘆く事は無い。そんな事で嘆くのは愚か者のやる事。」
「佐々木、崖は登るが良いか。また下るが良いか。」
「はっ、下るが楽ではあり申すが、しくじれば断崖絶壁故、石ころの様に転び落ちるでございましょう。」
「木村よ、土地の者は連れて参ったか。」
「はっ、これへ。」
一人の老人が連れてこられた。
「挨拶はよい、のう爺さまや、この鵯越とやらは、馬で下れぬか。」「殿様、無理でございます。鹿なら兎も角、無茶ですとも。」
突然義経の眼が光った。
「はっはっはっは。」
「殿、如何致しました。」
「おい、爺様や。馬なら無理だが、鹿ならよく下ると申したな。」「はい、そりゃあ鹿はあんな崖、庭みたいなものじゃに、でも…。」「これで決まりじゃ。皆の者、道は此処にある。此処にじゃ。爺様、案内してくれるかな。」
「はあ、儂はもう、年なので息子が、本人が良いと云うなら儂は何も云わん。」
「よし、では爺様の息子に頼もう。本人が望むなら何なりと、褒美をとらそう。」
気狂いじみて居るが、他に手立てが無いのである。道無き道に活路を見い出す事になった。
こんな時がぜん喜び出す変わり者が源氏の荒武者には多い。特に若い者には此の捨鉢な、いや運命への果敢な挑戦が大いに受けた。
年かさの者には半分諦めの者、他に負けんと意気込む者も居たであろう。兎も角源氏の侍八十名は皆、南無八幡を念じつつ、奈落の底への決行指令を待った。
茨の道無き道が続くこの鵯越に続く山野は、鬱蒼とした原生林である。日々鹿等を追い、単身狩りを生業にしている若者にとって、此の源氏武者集団の道案内役が、非常に気に入った様子で、先頭に立ち得意げに進んで行った。
「おいこら、待て小僧。はっはっはっは。素早い奴め。まるで猿の様な奴じゃ。」