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修羅の時代  作者: 中仙堂
2/15

春の予感

牡鹿半島は太平洋に大きく突き出し親潮、黒潮に洗われる海の幸に恵まれた景勝地である。

半島の根元辺りに大きく広がっている内海が万石浦である。

西国の瀬戸内を彷彿とさせる、波の静かな風土である。

半島の先端には「鮎川」と云う浜があり、鯨が押し寄せると云うので古来より、紀州、房総と並んで捕鯨が有名である。

温かい陽光が降り注ぎ、沖の方まで「きらら」を振り撒いた様に輝いている。

内海の小さく打ち返す波打ち際を、七名の男達が歩いて行く。何と云っても大男の弁慶は、人目でその人と知れる。

何の用向きか万石浦の渡波付近を、半島目指して歩いている。道沿いに牡蠣殻や、漁具が渦高く積み上げられている。

砂地を歩くと足の下に踏みしだく、乾いた音が心地よい。

時折、漁網の繕いに精を出す老いた漁師達が、一行を何者かと眺めている。

この鄙びた村を七〜八名程の一行が、通るだけで奇異に映るらしい。

不安気な若松左衛門を弁慶が「気にせんで良い。この辺りも吉次殿の配下だそうな。何事も心配無用。」

ひんやりとした並木の下を通り、急な坂道を昇り切る。見晴らしの良い小さな草地が広がっている。

「少々休もう。」

「弁慶。」大きな石に腰を下ろすと義経は、

「用と云う程の事でも無いが、弁慶は鮎川に楽しみが有るそうな。」

弁慶は少々驚いた風で、「おお、誰ぞにお聞きで。はい、楽しみが有ります。私はご存知の通り、紀州の小さな漁師町の生まれで丁度、鮎川と同じ名物が有ります。」

「うむ、名物と云い、鮎川ともなれば、当然鯨かな。」

「御意、仰せの通りで。吉次殿の取りなしで、鯨捕りに同行致したく。」

「弁慶、この度の鮎川行きは遊びでは無いぞ。」義経の厳しい一言に、ぎくりとした弁慶で有る。

「ま、しかし鯨捕りの家に生まれたそなたじゃ、今後又と無い機会じゃ、行って見よ。」

「ははっ、申し訳ござりませぬ。」

半島の尾根道を歩き、峠を越えると漸く鮎川の汐見の小屋に着いた。

小柄な名主とおぼしき老人が、一行を待ち受けていた。

「若殿さま、よういらした。手前はここの名主で、徳衛門と申す者でござります。吉次殿より命をお受け致してござります。」

「そうか、それでは一切お任せ致そう。」

「ははっ、代々我が家の名誉にござります。」

一行は小屋から小道の薄を掻き分け、下へと降って行った。

途中の道沿いは、栗、あけび等の果実が実っていた。

大男の弁慶もすっぽり隠れる程に背が高く薄が育っている。薮の間から明るい浜辺の家々が望める。

一行は更に小道を降り、名主の館の門を潜った。村は館を中心に七十戸程の漁師小屋から成っていた。

此処では一般の漁業の他に鯨漁が盛んである。

一行は客間に通された。義経は汗を流し、着衣を改めて、名主より挨拶をうけた。

「手前共は阿部徳衛門と申し、先代より源氏方の御加勢をさせて頂いて居ります。今は鯨捕りに精を出している毎日でございますが、日々牡鹿の水軍として、銛撃ち、弓矢等、田舎武者の成れの果てと申せど、何時か源氏の旗揚げの時はと、夢見る事久しい毎日でした。老いたる我が身なれど、御殿の出立つの為、軍船を大小御用意致しました。

尚不肖なれど、次男の清成を、御大将の御側にお置き頂ければ、家門の誉であると存じます。」

「先祖の名に賭けて存分の働きを致す事と存じ申し上げます。」

「相判った。清成とな、我が配下に仕えよ。」

「ははっ、有難き幸せに存じます。」

しばらくは今後の義経軍に関わる、鎌倉方面での行動の仮定談義に華がさいた。

「其れでは若殿、御家来衆の皆様。田舎料理ではございますが、存分にお召し上がり下さいませ。」

「おおっ、こりゃ懐かしい鯨料理よのう。」

久しぶりの珍味に、大喜びの弁慶である。

「さあ、精が付くぞ、そなたも召し上がれい。」宴が盛り上がると、隣の仕切りがそっと開かれた。

そこには粗末ではあるが、俄仕立ての楽士達が居ずまいを正して控えていた。

中央にはこ奇麗な衣装をまとった娘が、一人舞楽の始まりの合図を静かに待っていた。

やがて謡が始まり其れに合わせて、管弦の調べが始まる。少し小首を傾げた娘の舞いは、粗野ではあるが人の心を、しんみりとさせた。

「孫娘にございます。」

「鄙にも稀な、でございますな。」誰かがぽつりと云った。娘の表情に悲しそうな色が漂っていた。

「如何が致した。」

義経がそれとなく尋ねた。「不憫にござります。童女の頃より口が利けないのでござります。」

娘は一差し舞うと一言も申さずに、こくりと礼をして下がった。「さあ、しんみりした処で、無粋じゃが男踊りでござる。」

一座のひょうきん者が、気を利かして舞い始めた。

「鯨おどりを知らないか。」

「あっはっはっは。本当かよ。」

「あ奴も道化よのう。」漸く明るく賑わって、海辺の酒宴の宵も更けていった。

「おーい、鯨だぞ。」

「何の鯨かの。」見張りの番小屋から木鐸を打つ音が響いた。

二日酔の弁慶が取るもの取り合えず、小屋までふらふらになって駆け上がった。

「どうれ、どうれ」顔を紅くして息の乱れた弁経が小屋まで這上がると、こんもりと繁った林を背後に三方が黄金色に輝いていた。

「うむ、見事じゃ」

目の前に大きく広がる大展望は、さながら仏国土を彷彿とさせる眺めであった。

沖合いの中ほどを見ると、

「おお、見えるわ、見えるは。汐吹きがのう。懐かしいものじゃ。」

目を細めて感慨に更ける弁慶であった。

「わしも若い時分は鯨のモリ撃ちに憧れてのう。」

若者の三次が興味深げに、「あんな生き物が本当に捕れるんですかい。弁慶殿。」

「人間に不可能な事は無い。」

「ふーん。で弁慶殿、今は鯨捕りはやりたく無いのかい。」

「修羅じゃ。殺生はもう飽きた。」

「でも弁慶殿は薙刃の名手じゃ。」

「戦場の修羅は天下の為。み仏も許して下さるじゃろ。」若者には未だ納得行かない様である。

遠い沖合いを悠々回遊する巨大魚達にとって、今戦慄の時がやって来る。

足元の遥か下から「ウォー」っと云う雄叫びが沸き上がった。と思うと八丁櫓の鯨舟が六艘沖目指して、矢の飛ぶ様に進んで行く。

弁慶は一つ大きなため息をすると、何も見ずに坂を降って行った。

残された若い衆は、荘厳とも云える巨大魚と人の格闘を存分に楽しんだ。

人間に目星を付けられた雄の鯨は、突然波間から消え去った。ゴンゴンと船端を叩く音が、周囲に響き渡った。どれほど経ったのであろうか。小舟の群れより更に沖合い辺りの、水面がぐんぐんと盛り上がった。

暫くすると、水面の裂け目から、「ブオーッ。」と火山の噴火の様に白い雲が吹き上がった。鯨の息継ぎだ。

「ウォーッ」小舟の群れはじりじりと怪物を取り囲む。舳先に取り付いたモリ撃ちが、褌一つで立ち上がった。

赤銅の仁王像の様に鍛え上げられた、筋肉美が大きく狙いを定めると、一瞬石の様に身動きを止めた。

「イエィッ。」言葉にならぬ気合いと共に、モリ撃ちの体が飛翔した。

ビュッ、と唸りを上げてモリは鯨の急所を射た。鯨が余り苦しまない様に二、三本のモリで仕留める掟だ。鯨は水面でもんどうり打って果てた。

人間達は熟れた西瓜に蟻が群がる様に、ある者は巨大な鯨の上に昇り、又綱を架けて岸へ引いて行く。

大漁に湧いた浜では、太鼓で漁師達を迎えた。浜の小高い岩の上で、義経もこの珍しい戦いの一部始終を観ていた。

「見事なものじゃ。」

後に平家と船戦が展開されるが、世に謡われる程の名将振りは、この時のインスピレーションによるものなのか。

中空を睨みながら頻りに頷く義経であった。

「殿、ご覧になりましたか。」

「うん、面白かった。まるで船戦じゃ。」

「修羅場じゃの。」

武術の天才児は、何を見てもその中に戦の駆け引きを、隙間見るのであろう。

浜は祭の様に賑わっていた。

鯨肉を求めて近在の村々から、相当の人だかりが出てきた。

「若殿、こんな所に居られましたか。」

「おお、吉次殿か。」

「今な、名物の鯨捕りを見て居ったのじゃ。」「中々面白いものでございましょう。」

「それはさておき吉次殿、準備は如何がであろう。」

「殿、少々急いて居りますな。

焦りは禁物ですぞ。明日夜、ご案内致しましょう。」

「判った。」

「今夜面白い余興を、お見せ致しましょう。」

「面白いと云うと。」

「見ての御楽しみと、申しておきましょうか。」

「あい、判った。」

宿舎の名主屋敷に帰ると、義経の今後の予定を、弁慶、吉次を挟み、幹部の武将達を集めて検討する事となった。

治承四年、高倉宮以仁王の令旨が諸国の源氏へ下り。後の青年義経が待ちに待った西進の旅が始まった。

黄瀬川の宿にて兄頼朝と感激の対面を果たす事になるが、其れまでの道程の中、平家の探索が、未だ厳しかったので、義経武士団の移動の手段は議論百出。結局吉次の妙案と云うべきか、神出鬼没の義経らしい行動に決定された。

その為に義経軍団輸送船の水夫等は吉次の豊富な資金と、人脈で賄った。

そしてこの十数日間をかけて、陸前近郊から源氏縁りの田舎武者が、この鮎川に集合する事となった。

総勢一五○名。少勢なるが血気盛んな男共が、この時とばかりに立ち上がった。

此の時鯨捕りの浜では、夜になると郷内の広場に、かがり火が灯された。

パチパチはじける灯りに照らされた中央には、主賓の客人が招かれ、左右の垣根を前に大勢の見物人が溢れていた。

「それでは名物のモリ撃ち競べを執り行います。」

元、郷一番のモリ撃ち名人が、総勢三十人のモリ撃ち達を前に、社の前で奉納試合の開始を宣言した。

「これが例の余興か。」

義経が云った。

「御意にございます。」

「皆々頼もしいのう。」

「今日の日を皆、楽しみにして居りました。」

「そうか。」

仕切り線から三○歩余り先に、三つの的が用意されていた。

「一番モリは岬の平太。」

「うお〜っ。」

大歓声が巻き起こった。

「ビュッ」と野太い唸りと共にモリが飛んだ。

公平を期し一人三回。続々と逞しい海の男達の挑戦が続いた。

五人目の漁師、六平衛が一番優秀なモリ撃ちで、三つの的を見事に打抜いていた。

「さあさ、飛び入り結構。我こそと思わん者は居ないかえ。」

進行役の白髪の老人の一声に四人の男が名乗りを挙げた。

何れも六尺に及ぶ大丈夫だ。

勿論、我が弁慶も血が騒いだのであろう。

主人義経の快い許しを得て、三人目の挑戦となった。

いよいよ最大の盛り上がりに会場は、しいんと静まり返った。

「ビューッ」モリは唸りを挙げて、ぶーんと空を切り、

「ウウオーッ。」

見事に三つの的を射た。

勝利は六平衛と弁慶が分け合った。

「弁慶、見事。あっぱれであった。」

「お恥ずかしい。汗顔の至りでございます。」

「いや、そなたの精進。何れ役立つ事であろう。」

「そのお言葉、有難き幸せに存じます。」

「若殿もいや、実に懐が深い。」

自分のこだわりを、気持ちよく理解してくれた主人、義経を弁慶は有難く思った。

「この技競べ、単なる力技とは違う。心身共に精進あったればこそであろう。」

人々は興奮の余韻を残して、散って行った。

昼間の騒ぎの後、浜では普段より早々に静まり返って行った。

その夜、宿舎で早めに部屋へ下がる弁慶は、渡り廊下の端でそっと合図をする男に気付いた。

屋敷の外に出て、月灯りの下で確かめると、先程のモリ撃ち老人の息子らしい。

「如何が致した。」

「弁慶殿に、一つお願いの義がござる。」

「はて。何事か。」

二人は連れだって、裏道を通ると浜辺へ出た。

「はっはっはっは。」

男は照れ臭そうに笑った。

「お恥ずかしい事でござる。」

「何事でござるか。」

「私に妹が一人ござる。」

二○歳を越え、未だ一人身で老父も思案に暮れて居ったが、仲々行き先が決まらん。」

「それがどう云う事で」

少々きまりが悪くなってきた弁慶であった。

「妹の名は『ひらぎく』と申します。先日弁慶殿を見かけて、以来大そう…その。恋焦がれてまして。

貴僧の仏弟子としてのお立場も、有り申すが、お角違いは、承知の上一度で結構でござる。妹の胸の内を聞いて下さらんでしょうか。」

「……。」

「如何がでござろう。」

「……。」

「只、気持ちだけでも、お伝え出きぬかと…。」

黙りこくっていた弁慶が

「お察し申す。」

「私は仏門に入った身ですが、仏徒として、其のお方の気持ちは、お受け申す。」

「では一時だけで結構。会って下され。」

心を決め、覚悟をした弁慶は、男にしたがって浜の外れの岩陰に歩いて行った。

「では私は、暫く下がって居ります。」

男は弁慶を案内すると行ってしまった。

浜辺には妹の「ひらぎく」が一人下を向いて佇んで居た。

そっと近ずく弁慶は、石化した様に棒立ちになってしまった。

月光のみが、煌々と輝く夜二人は、暫く長い間無言でいた。

浜風が二人の間を吹き抜けて行った。

どれだけの時間が経っただろうか。

弁慶の胸中を様々な思いが、洪水の様に流れて胸が高鳴った。

あれ程の豪の者が、一寸も身動きが取れないでいた。

そんな時、

「弁慶殿。」

「……。」

「貴方様をお見かけしたのは、つい先日。未だ余りにも短い出会いです。」

「貴方様は何れ近い内に、お殿様と遠国へ旅立たれる御身。増してや御仏に仕えるお方。」

「そうです。私は罪深い女です。そんな貴方様に思いを寄せてしまいました。

私は多くは望みません。この長い人生の中で、たった一晩、貴方様のお近くに居て、同じ空気を吸う一時が、私の唯一の望みです。

貴方様は、お殿様の尊い御使命に、共に行かれる方。勝手で申し訳有りませんが、私には自分の生きた証が欲しかったのです。

はかない陽炎の様な女の、たった一つの哀れな望みを叶えて下さいませんでしょうか。」

「うむ。ひらぎく殿と申されたか。」

「はい。」

娘は消え入る様な声に、真っ赤な顔で答えた。

何の因果でこんな事になってしまったのか。

「ま、此れも御仏の縁と申せましょう。

貴女様の事、この弁慶に思いを下さった事、決して忘れまい。こちらへお顔をお見せ下され。うーむ。美しい。如来様の様だ。」

「ホホ、夜とは申せ、余り見つめられると恥ずかしくて、息も絶えそうです。」

ひらぎくは、月明りの中二人切りの逢瀬に、只嬉しくて涙が溢れるだけでした。

こんな時、一体何を語れよう。未来へ託すも不可。

只この女性の今後の幸せのみ念ずる弁慶であった。

波打ち際は、月明りに蛍光色に淡く光っては、寄せて返した。

二人には永劫の月日が過ぎた気がした。

やがて東の空が、ぽっと明るくなってきたのが判る。

ひらぎくの兄はとうとう、浜には戻って来なかった。

弁慶はそっと、ひらぎくの手を取って。

「もう、お帰りなされ。」

二人は紅潮した顔に朝日を受けて、思い出の浜を後にした。

朝の小鳥のさえずりが始まり、鴎がそろそろ飛びだした。

朝の空気にいつもの活気が出て来ると浜の一日が始まった。

長かった。永遠に終わりの無い時間に弁慶は感じられた。

昨夜はずっと起き通しの弁慶であったが、心身共に満ち足りた気がする。

宿舎へ帰ると義経の前に、いつも通りに出仕した。

「お早ようございます。」

「おおっ、弁慶か早いな。」

「わしは、夕べ良く眠った。そなたは、良く眠れたか。」

「ははっ、いつも通りで。」

「一寸、顔色が悪いようじゃが。夕べは喧しい弁慶のいびきが、全く聞こえなかった。」

「ははっ、ご勘弁を。」

「ふぁっ、はっは。」

「聞くには及ばん、わしは野暮は嫌いだ。」

「はっ。」

「時に殿、いよいよ今日は吉次殿お約束の…。」

「うん、旨く逃げたな。そうそう、今日はいよいよ、我々の舟を見に同道する。」

朝食を済ますと屋敷の裏の空き地に、義経の家来達、幹部三○名が集結した。

各分隊の総勢は十五の組に分け、近郊の浜や、一部は石巻方面の奥地へ分散して待機する手筈であった。

一同は裏の松林を抜け、半島独特の曲がりくねった坂道を歩き、時には薮道、笹原を縦断して目的地へ向かった。

此の日は主人の義経も徒歩である。

半島の山を崖沿いに大きく迂回して、半島の裏側へ回った。

と、其処には小舟が三艘舫っていた。

「此処からは舟でござる。」

三艘に分乗して男達は、沖へ漕ぎ出した。

更に海岸線に沿って迂回すると、絶壁に閉ざされた入り江が見えてきた。

桃之浦と云う、元々無人の浜であった。

入り江が其のまま崖下の、大きな洞の中に続いていた。

舟に乗ったままで中に漕ぎ入れて見ると、其処は自然の隠れた要塞であった。

深い入り江の中に侵入して見ると、其処には

五○名は乗れそうな俄仕立ての軍船が三隻もひっそりと出番を待って居た。

「うん、見事じゃ。良く出来ている。」

「ご満足頂けて光栄です。」

「間もなく出立つの日も近い。皆、体を愛えよ。」

「有難きお心使い。」

やがて一同は元の船泊まりに戻った。そして一同は又の日を約して、各々の潜伏先へ戻った。

いよいよ義経の遠征の時期は、近づきつつある。大事の前に、余り世間に目立つ振る舞いは禁物である。

常日頃人目に付きやすい義経は極力自重を心掛けていた。

今日この地方で、義経の足跡は殆ど見られない。

この地方を訪れて、見える物は優しい山並と、感じるものは温かい人情。時に優しく、時に厳しい栗駒降ろし位いであろう。

当面義経は出立つの準備が出来る迄の間、この半島近隣で過ごす事になる。

「殿、折角良い馬を手に入れたのに、手元に置けぬのは、誠に残念でございますな。」

「うむ。一度配下の者共と遠出して、此の道筋が安定してからかの。」

「馬の船旅は可愛そうでございます。」

「下手をすると折角陸奥の名馬を死なす事になる。」

「何れお早い内に連れて行けまする。御乗馬として。」

「そうじゃな。」

牡鹿の冬は暖流の黒潮の恩恵で、北国としては穏やかであるが、暮れの其の晩は木枯らしが厳しく、非常に良く冷えた。

その夜宿舎の戸を叩く者が居た。

「御免」

男の声がする。

「おおっ。三次殿か。」

「遅く申し訳ござらん。街道を抜けるのに、以外に手間取ってのう。」

「殿はもう、お休みでござるか。」

奥から弁慶の声がする。

「はい、ただ今。」

当直の者が奥へ引き下がって行った。

暫くして、

「殿はお目覚めでござる。」

弁慶が代わりに出てきた。

「殿の御気性じゃ、構わんとの事。」

「はっ、では遠慮無く参る。」

「おおっ、参ったか。気にせんで良い。西国の話しともなれば何に於いても第一じゃ。」

「まあ寒かろう。挨拶は又で良い。この辺りは栗駒降ろしが厳しくてのう。」

「おう、湯が湧いたぞう。今、湯づけを拵らえさせて居る」

「で、鎌倉殿はご壮健にござるか。」

「はっ、大殿様は都より令旨有るも、未だ動きませぬ。京では平家が都を離れるも、其れに替わる木曽殿ご采配が、殿上人と悉く折り合いが付かず、難儀を致して居りまする。とうとう役人、公家衆の首のすげ替えを行った事が禍し、最早木曽殿も朝敵の汚名を受けてしまった様で。」

変転浮き沈みは世の常である。

その夜は遅くまで上方や鎌倉の動静を確認し合った。

外では最前よりの「ゴーッ」と、すざましい木枯らしが山全体を揺るがしていた。

真っ暗な夜闇の中、何やら白い物が舞い降りて来る。

やがて野原一面に、薄紫の毛氈を敷き詰める。見渡す限り、白銀の世界が広がる。

はたと風が止むと小狐が三匹、飛び跳ねて、くるくる舞い踊る。中空からは金銀黄金の牡丹や、あられが、ゆったりと、又狂おしく舞い降りて来る。

いたずら小狐が何かを見つけて、駈け寄って見ると、朝日にぼうっと芽吹き始めた福寿草で有ろうか。

春の予感、生き物の季節がやって来た。

「おーい、善太郎」

遠く子供を呼ぶ声がする。

「雪じゃ、雪じゃ。」

「おめえ、そんなに雪が珍しいか。」

「い〜や。じゃが俺は雪が大好きじゃ。」

「他に何が好きじゃ。」

「雨が好き、風が好き、お天道様が好き。」

「ほーう、そうかい。」

「霰が好き、雷様が好きじゃ。」

「はーはっはっはっ。皆好きか」

「う〜ん、皆好きじゃ。」

話し声が近づいて来る。

近くを行き来する馬曳きと、その孫の話し声で義経は目を覚ました。

魚や野菜を、村々に商する年寄りらしい。

「はっはっはっ。」

老人と子供の話し声を聞いて、幼い頃を思い出していた。

「殿、お目覚めでございまするか。」

「おー少し寝過ごしたらしい。」

「さすがに春が近いと良く冷えますの。」

「何の、これしき。」

京の山々はもっと雪深い。

「比叡の山の寒さと云ったら、又格別でござる、あの雪深い山中で、随分と無茶な修行三昧。今考えますと随分又、思い込みが激しかった様で、汗顔の至りでございます。」

「処でこの長い雪の季節も終わり、最早猶予もならん事じゃ。

兄君も痺れを切らしてござろう。手筈は良いな。」

「ははっ、整っておりまする。我々一二将以下、総勢百五十名。三日後愈船出でございます。」

一の船「比叡」。二の船「三笠」。

三の船「東山」

武備、料食、水、燃料、軍資金、水夫、全て揃っております。」

「よし。」

「三日後、日の出に出発じゃ。」

「心が躍りまする。」

「其れでは官兵衛と共に指揮に当たれ。わしも間もなく善照殿に、挨拶をして参る。」

朝食後義経は張り詰めた冷気を、胸一杯に吸い、従者五名を引き連れて雄鹿半島奥にある、廃寺同様の善照寺に向かった。

北国と云っても雄鹿の里は、黒潮の影響で暖かく、降った雪も直に解け出す。

山道は、溶け始めた雪で、ぐっしょり水を含み、なかなか歩き難い。

石巻方面へ二里程小道を歩き、時に転びつつ、辿りついた。

「御免。」

小者が大きく呼んだ。

すると、あばら家の奥から物音がした。

「おうおう。」

「若殿、いよいよご出立つですか。」

「暫くよのう、爺。」

明るく甲高い義経の笑い声に、久々に華やぐ本堂であった。近畿の寺社に比べて、遥かに貧しく、荒廃したかの寺であるが、権力闘争等の色合い等、露程も感じさせない田舎の落ち着いた寺が、義経の好感を抱く理由である。

「あちらでも、こちらでも殿は良いのう。お仲間が沢山増えて。実に羨ましい。ははは。」

いつも屈託のない住職の笑顔である。

「善照殿も良いお弟子が沢山ござる。」

「まあ、そうじゃが若殿のお仲間とは、又中味が違う。」

「ところで御大将は、最近赤鬼ばかりか、青鬼も手に入れ、お味方でござるとか。」

「おう、そうよ。なかなか元気でのう。良く飲み、良く喰うわ。」

「良く喰うとは、人間をでござるか。」

「ああ、人間は喰わぬが、二匹共、良く人を喰っとるわ。」

「そいつは楽しい鬼共じゃ。」

「はっはっはっ。」

寺は大いに、賑わった。

「青鬼の話しは、こっちでも有名かの。」

「ほうれ、この本堂の仁王殿も元気が良くての。この通り毎日、悪鬼共を踏みつけて居る。殿、鬼と云っても赤鬼、青鬼仲々の働き手で、手柄を立てられようが、鬼と云うもの、その性は修羅が天性。ようく悪さをせぬ様、踏みつけておきなされ。」

「今の世の中、乱世ゆえ鬼も人に。人も鬼に変化しおる。故に人は鬼にならぬ様、鬼は人にその性が転化する様に、わしは祈る。若殿は武人ゆえ良く踏み付け、また救い上げる事じゃ。」

「爺様、鬼が本性か、それとも人が正体か。」

義経は一瞬はっとする程、厳しい眼をしていた。

善照はとろける様な笑顔を見せると、

「鬼は本来無。人も又無し。」

「何故。」喰い付く様な眼であった。

「はは、如来は人は創らぬ。邪悪な鬼も創らぬ。」

善照も真剣な顔に変わると、

「この世には仏しか居らん。とわしは観た。」

「あっはっは。」

義経は鋭い眼差しをして大笑した。

「なぜ、人はいる。鬼は居る。」

「居らぬ。」

「……。」

本堂の中は空気が張り詰めていたが、やがて義経の表情が和んで来た。

「さ、白湯でも召し上がれ。」

「そうじゃ。居らぬのじゃ。人も、鬼も。」

「眼に映る姿ばかりが、真実ではござらん。」

「その見えぬ仏の姿を見抜くのが、わしらの修行と云うものじゃ。」

「わしには見えぬ。」

「かまいやせん。」

「そう簡単に見えたら、わしら本物の坊主はいらん。商売上がったりじゃ。はははっ。」

本堂脇の小部屋で軽い昼食が始まった。

薪が時々パチパチ弾いている。

「ほう。雑炊か良い匂じゃ」

「若殿とも、又何時合えるか判らぬゆえ、少しばかりのご馳走でござる。」

「鮑に、牡蠣、青菜でござる。」

「腹の中にしみじみと、浸み込む旨さじゃ。」

義経は飯の振る舞いを受けながらも、

「鬼を踏み押さえ、又人を救い上げる…其れが、わしに出来ようか。」

「貴方なら出来る。」

「他の者は…。」

「……難しい事でございます。」

「兄者は…。」

「お会いした事はございませんが、あのお方は、そう、大鬼でしょうか。」

「わしは押し潰される。」

「そうでもなかろう。」

「その時は水に、おなりなされ。」

「水は熱鉄を冷やし、名刀を生む。汚れを清め、田畑を潤す。大河となり、大海に注ぐ。

多くの生き物を、内包する。はっはっは、そして力まない。」

物思いに耽るのは、青年義経であった。

昼過ぎに寺を出て宿舎への帰途、今朝方通った道が、大分乾いていた、さすがに峠道の風は冷たく、半島の尾根道を伝う細い道は吹き曝しが厳しかった。

遠く夕闇に浮かぶ月が寒々しい。

薄暗がりに浮かぶ漁師町の明りが、ちらちらと見て取れる。

「寒うございますな。」

小者達の言葉に

「ああ。」

と気の無い返事の義経は、先ほどの善照の言葉が心に残っているのであろう。


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