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修羅の時代  作者: 中仙堂
13/15

おせん

いつも戦いの日々を送る


義経にとって


おせんは空気のような存在でも


有ったが、


決してそれだけで終る


女でも無かった。


「殿、殿。」

大きな目玉が心配そうに、自分を見下ろしていた。

「おう、弁慶か。」

「おお、お気が着かれましたか。」

「此処は何処じゃ。」

「屋島でござる。」

「嗚呼、夢か。」義経は寝汗を拭い乍ら、屋島の戦場近くの古寺に陣を敷き、本堂に寝かされて居る事を思い出した。さっと起き上がり、「佐藤継信は如何致した。」

早速無念の忠臣が殉死した事を思い出し、屋島終了後、手厚く弔った。其の日も戦いに開け暮れ、やがて夕刻となった。

ふと見ると沖の平家の御座船より、一艘の小舟が漕ぎ出された。

汀近くへ漕ぎ出された。

すると小舟の上には歳の頃十八〜九歳の女が乗っていた。小舟の上に立てた竿の上を見よと指差した。

竿の上には一差しの舞い扇が、風に吹かれてゆらゆらと揺れて居た。様子からしてこの扇を弓で射て見よとの事らしい。

岸辺に居た源氏武士達は、如何したものだろうと、互いに顔を見回していた。

義経は早速源氏の名誉に賭けて、あの扇を射落す者は居ないかと尋ねた。

射れば武門の誉れ、出ずば源氏一門の名が廃る。

そう、た易く引き受けられない事であった。誰か居ないかと云う主人の尋ねに、誰ともなく那須余一なればとの声が出た。

間もなく余一御前にまかり出て、自信が無き旨を申し上げると、これだけは源氏として、引き下がる訳には参らぬので、是非とも射て欲しいとの事であった。

「其れでは、もう一人弓の名手、余一の弟兼光を共に遣わそう。

二人して同時に射て見よ。」

との言葉に、余一心を強くした。

日暮れで時も猶予が余り無い為、二人は浜辺で試射を行った。

見事試しの的を射止めた二人は愛馬に跨がるや、水際まで乗り入れると、自慢の弓をきりきり扱いた。

南無八幡大菩薩、又天地神明の名を念じ、扇の真ん中を射させたまえと、二人は強く祈った。

太鼓の音と共に大きく弓を引き絞り、同時に蕪矢をひょうと放つと、矢は「びょうっ」

と浦全体に長い唸りを残し、扇目掛けて吸い込まれて行った。

矢は二本共各々扇に当ると、扇は夕日に紅く染められた中空でぱっと、音も無く散った。

其の見事さに沖で見ていた御座船の平家からも、陸の源氏からも、やんやの喝采が響き渡った。

其の晩義経は深い眠りに就いた。荒涼とした暗い海、水平の彼方から一面の黒雲が湧き上がると思いきや、三万の敵軍団の船であった。

次第に近付いて来る軍船には、顔の無い人々が乗り合して、こちら目掛けてやって来る。義経は少しも怯まず配下を指揮していると、やがて船同士がぶつかり会った。

敵方の武者が「わいわい」と声にならぬ声を出しながら、どんどん押し寄せて来る。

さすがの剛胆な義経も薄気味が悪くなり、少々たじろいでしまうと、やがて戦況は混沌として来た。

敵方の女房共は、幼い子供を道連れに入水して海の藻くずとなり、敵味方、組んず解れず、共に海の底に沈んで行った。

「待てい、待てい。」

男共は兎も角、女子供も次から次へと争う様に止まらない。

「あっ。」

「殿、如何なされた。」

此処は丸亀の宿であった。

海を渡れば本州である。弁慶は心配そうに義経の顔を覗き込んだ。「殿、如何なされました。只今、四天王以外は、遠ざけて居ります。」「近ごろの殿は、何やら塞いで居る。長丁場の戦なれば、相当お疲れでは。常日頃、お口を閉ざし申し難き事、是非ともお申し下され。我等腹心の者なれば、口外の恐れはござりませぬ。」

意を決して義経は、

「弁慶、皆の者、儂は奥州、平泉を出てより、此のかた武士として兄上の手となり、足となって、此の地に人の生くるべき王土を開かん為、尽して来た。それも配下の皆の者の忠義の支え無くては無かったがのう。」

「儂はもう、殺生は嫌になってしもうた。だが今、源氏の大将として平家追討の役目を捨てる事は出来ぬ。如何致すべきか。」

「はっはっは。殿、嫌になったでは済まされぬが、嫌々殺生をするのも地獄。しかし、其れを捨てて逃げるも又、地獄でござるぞ。」「判っておる。」

「殿が気弱になったとは、弁慶露も思いませぬ。皆もそうであろう。」一同頷いて見回した。

弁慶はにやりと一人笑った。

「殿、一つだけ、方策が在り申す。」

「在るであろうか。」

「もう、一人殿が居れば話は進む。」

「な、何と。」

「殿、殿が市の谷にて拾いなされた若者が居ります。」

「鷲尾三郎義久か。」

「如何にも、殿に似て中々の元気者。元々猟師の出乍ら、先祖は武士。思いの他聡明なれば、腹心次第で何とかやり通せるかも知れませぬ。」

「ほれ、声色も似て居るし、猟師なれば弓も上手じゃ。」

「少々弓の構えが粗野でござるが。」

「しかし、顔が割れるであろう。」

「なんの、九郎義経様、戦地にて、奇病をお患いになり、素顔ではお目にかかれませぬとして。何とか切り抜けさせましょうぞ。」

「それと、もう一つ。新たに四天王も設けましょう。」

「皆、済まぬ。」

主人の思い余っての心境吐露で、思わぬ展開を呈してしまった。

兎も角、義経は瀬戸を渡り、更に長門の壇の浦へ源氏を集結して、一大決戦を展開した。

源氏数万の兵の内、義経の素顔を知る者はいと少なく、梶原等の幹部達は、怪しみ乍らも此処迄来て、事態を悪化させてはならじと、顔の見えない大将義経は転戦し続けたのである。

或日おせんはいつもの様に、朝早くから馬達の世話をしていた。

牧場で飼葉を与えていた。牧舎の向こうで、人影が見えた気がするので、様子を見に行った。

誰も居ないと思い、はっと振り返ると戸口には、あの懐かしい九郎の笑顔があった。

「おいででしたか。」

おせんは全身で嬉しさを表したかった。

彼に近付くとすっと、戸外に出て行った。「あっ。」

と云いつつ、後に続いて外へ出ると、外はもう夕焼けであった。

二人連れ立って馬場の脇を抜け、坂を登り、丘の上に歩いて行った。おせんは不思議に思い、途中何度か話しかけた。

しかし返事は無かった。丘の上迄登りつめると、牧場一帯が錦絵の様に輝いていた。

数十頭の馬が草を噛み、長閑であった。

遠く京の街の方迄紅に染まって見えた。

「美しいものでございますね。」

おせんが振り向くと義経には顔が無かった。

と思う間に、愛しい君の五体は霞の様に、中空に消え去ってしまった。「あっ。」

と叫ぶ自分の声で、おせんは目が醒めた。今でも胸がどきどきと高鳴って心なしか、体のけだるさを覚えた。

すると、隣の部屋から、おせんのお付の下女ゆりが、心配そうに起き出して来た。

「如何なさいました。」

「……。」

最近は義経の夢を良く見るおせんである。何時もの夢の中では、九郎は元気な笑顔で出て来るのだが。

今夜のあの人は…。

「疲れたのであろうか。」

いつものおせんは、元気者で此処でも評判であるが、最近は良く考え込む姿が見受けられた。

戦いの無い世界に暮らしたいと申せ、現実の世は、其の願いとは遥かに遠く、一旦武士と生まれれば、其の業の流れの行く末迄、流されるしか生きる道は無いのであろうか。

九郎は若年、牛若丸として育ち、武芸の家に生まれ落ちた宿命として、その後実に多くの波瀾に曝されるが、先ず幼児期に僧籍に入る事となったが、環境が合わず寧ろ武芸に秀でていた。

物心が付き自分の宿命を知るや、又々殺生の巷に身を沈める事になる。しかし、人間は元々争いが本性に非ずして、人生を重ねる内に自然、平安を求めるのが成り行きらしい。

どう、人が其の生き方を論うとも、本人の生き方迄真に変えられる訳では無いらしい。

あくる日の早朝、丸亀の空は晴れ晴れと高く輝いていた。

「殿、ご用意は如何で。」

「うむ、良い。」

此処、丸亀の港に七名の山伏が現れた。一人は巨大な体躯が目立ち、今一人は小柄で聡明そうな行者であった。

「西国では又戦が激しかろう。」

「はい。でございましょう。」

一同は鳴門から淡路島へ渡り、明石に着いた。

「おう、六甲山でござりますな。暫く行くと芦屋、西宮でござる。しかし、立場が変わると、見る景色も又、世間も違って見え申す。はははっ。」

「おせん殿は如何致してございましょうか。」

突然の話しに義経は顔を赤らめた。

戦場を離れ、責任のある立場から去った其の後ろめたさから、個人的な事は暫く考えない様にしていた。が、巨大過ぎる重圧から放たれると、つと思い出される事は、都の片隅に置き去って来た妻女である。

個人の立場に立つと、彼の人生の処し方を卑怯とか、軟弱とか決して攻める事が出来ようか。

又武士の沽券のみを考えて妻子を顧みる事を放棄する事は、時と場合によって、人間味を失わせる事になるであろう。

「先ずおせん様の消息を確かめましょう。」

「其れは其れとして、殿は今後どうなされます。」

「奥州へ参りたい。願わくは藤原秀衝殿の遺志を大切にし、奥州仏国土の再建をお助け致したい。」

「おう、其れは良い。この弁慶も及ばずながら尽力を惜しみませぬ。」

さて、屋島の戦いでは平家軍も相当死に物狂いで、仕掛けて来たが、増して壇の浦ともなると、其れは語るに尽きせぬ滅亡のドラマであった。

或時は義経のみを集中的に、生け捕らんとしたり、弓矢の雨の洗礼を浴びせたりで、さすがの源氏の荒武者達も、遠い異境での空しく、終わりの見えない戦に、厭世感の虜になる者も出て来る。

「何故こうまでして、同じ武士同士が戦わなくてはならないのか。」或評議の中で、配下の者から思わず不満が出た。

其の時、義経は奇病にて、顔面を布で被っていた。躯の不調を押して語った。

「何故、此の度の長い戦があるか。皆は判らぬか。」

其れは、まるで義経に鬼神が乗り移った様であった。

「是は鎌倉の兄君、いや頼朝公も思いは同じである。平氏、源氏、元は同じ禁裏守護の武士である。其れが何故、争わねばならぬか。憎いからか。宿業からか。其れもあろう。しかし、禁裏からその守護を任された、我等武士の勢力争いに非ず。此の戦いは、禁裏より任された治世を平氏が、一門の為だけに勝手に執り仕切った所以である。そして何よりも神器と御帝のお命を、手中の玉として我が者顔に振る舞う平氏の不遜から主上を、お助けせんが為に我等は戦うのである。」

義経の熱弁に源氏の若武者、老武者も各々発奮した事は云う迄も無かった。

当の義経は自分が何者なのか時々判らなくなった。

最近は或事情から人前では顔を被って、暮らさねばならない。其れが自分か。人目を忍んで自分に返る今の自分が、本当の自分か。不思議な事に時として、自分が別の人格に支配された様な気がする事もある。

先程もそうであったが、偽物の自分に、本物の自分の魂が天下った様に、意外な強き言葉を語る事がある。

それは源氏の祖霊なのであろうか、将軍義経の霊なのか。

兎も角自分は、精一杯其れを演じようと思った。

大それた事は考えない。只自分は自分に忠誠を尽そうと。

仲間が居るとは云え、過去の自分に比して、半ば隠者の様な境涯になった義経は、取りあえず奥州の地を目指したが、京に置いて来た想いの人を尋ね、一旦詫びと別れをして行く事にした。

七名の山伏の姿も、相当板に付いて来た頃、京の嵐山にある、一軒の茶店で休息していた。

以前に比べて大分穏やかな都に還って来た様子が、其処此処に伺われた。

まさかこの茶店に佇む山伏達が、天下を震撼させた主従であると、誰が想像するであろう。

茶屋の傍らで通りを行き交う人々を、ぼんやり眺めていた九郎に、何やら覚えのある人物が近付いて来た。

視線に気が付いて、くるりと後ろを向いた義経に、其の男は小さく声を掛けた。

僧形の男であるが、九郎に顔を近付けると、にやり、と笑うと小声で、「九郎さま、私でござりまする。」

表を振り返った義経は驚いた。

「おおっ、そなたは熊谷殿、是は寄寓でござる。」

その男は正しく熊谷次郎直実その人であった。

市の谷の合戦で、平家の敦盛と戦った人物であった。敦盛の最後の哀れさ、そして世の無常さに、出家していたのである。

「おおっ、御無事で。人中につき多言はご無用。私は今、黒谷の法然様の元へ通い、貴い御教えを頂いて居りまする。宜しかったら、師へ御紹介致しまする。」

義経は誠意を感じつつも礼儀を尽し辞退した。では、恙無くと共に別れた。小半時もした頃であろうか。早朝からおせんの様子を伺いに、出かけていた大庭が帰って来た。

「殿、おせん様は、今保津川の牧舎にはご不在です。」

「なんと、そうであったか。留守が長かったからのう。」

「馬喰の銀太が申すに、おせん様より、殿が見えたら伝えよと便りを預かって参りました。」

おせんは、今年春、髪を下ろして仏門に入ったとの事。

「庵の所在は聞いて参りました。鞍馬の山懐の里にお出でで。」

「ご苦労であった。そうか仏門に入って居ったか。」

何かしら不憫に思えて目頭を熱くした義経である。


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